毕业论文
题 目 織田信長と曹操の比較
――家臣を中心として、人あしらいから
院 系 外语系 专 业 日 语 学生姓名 学 号 指导教师
职 称 讲 师
二O一三 年 五 月 十五 日
目 次
一 はじめに ·····················································二 少年の英才 ···················································三 本家の部下 ···················································4 1 4
四 特別な所からの将士 ··········································· 6 五 裏切る部下 ··················································· 9 六 終わりに ···················································· 10 致 谢 ··························································· 13
織田信長と曹操の比較
——家臣を中心として、人あしらいから
要旨:織田信長は混乱の日本戦国時代を終結して、日本の統一したのに巨大な貢献を与える。ところが、曹操は戦国の割拠勢力が終わって、三国時代の魏の基礎を作る。二人は混乱の時代からの英傑と言える。しかし、織田信長は第六天魔王と言われるが、曹操は皆が奸雄と呼ばれる。英雄にしても、悪名をとどろかす。それによって、二人はいろんな共通点を持つ。でも、彼らが優れる将軍であるのは紛れもない。自分の知恵によって、兵士を統率して、数限り無い戦役を勝った。この論文はそれぞれの家臣を中心として、二人が人あしらいにおいての特徴を分析する。更に、その歴史に自分の印を残っている二人を理解する。
キーワード:義理人情;慧眼;度量;知恵;自信;変化
一 はじめに
大学三年の時、日本歴史を習ったから、戦国三英傑の一つである織田信長と言う人物を知った。この人の人生はドラマチックな色合いが強い。織田信長は尾張国の戦国大名の織田信秀の嫡男であるから、天運に恵まれた人だと言われる。しかし、少年の時、伝統を軽視して、束縛が嫌かった。奇抜な格好をするのは大好きであった。彼は勝手気ままで、やりたい放題で、皆に馬鹿にされていた。母親さえ、彼が才能がなくて、家督にならないと思っていた。だがら、弟さんの織田信勝が家督になるのを支持していた。不出来ものと思われていた織田信長は父親と力量が伯仲している斎藤道三を征服し、室町幕府を滅ぼし、畿内において強力な織田政権を確立した人物になった。戦国時代が終結した英雄になって、戦国三英傑の一つになった。彼は日本の英雄と言われて相応しい人物である。でも、なぜ彼は第六天魔王だと呼ばれるか。それは、おそらく、仏教が広く流行していたとき、織田信長は比叡山延暦寺を焼いて
1
しまって、僧侶だけでなく、罪がないものに手をかけ上、二度もわたる伊賀一揆の鎮圧のゆえであろう。 興味深いことに、中国の歴史にはそのような人が存在する。彼は中国後漢末の武将、政治家である曹操である。詩人、兵法家としても業績を残した。彼は順帝に厚い信頼されていて、力を尽くして、劉志を補佐していた曹騰の孫である。曹騰は宦官だが、漢恒帝の劉志に重用されていた。父の曹嵩が三公である太尉である。役人の家族からの子孫としいての曹操は幸運な人である。でも、少年の時、彼と他の役人の家族から規則やしきたりを守る子供に違って、策略を用いるのがうまい。だから、「有机警,少权数」という評価がある。さらに、それどころか、曹操には人との関係の大切さを、まるで生まれつきに知っていたかのように、身分などに関係なく崇高なる理想を抱いている人を交際した。だから、「有机警,少权数」という評価がある。やがて、曹操は漢の丞相にのし上がって、当時中国北部に位置する貴族袁紹という割拠勢力を終わらせたことで、三国時代に「天下三分」の国―「魏国」の基盤を築いた。曹操は生まれながら英雄だという言い方は多かったが、中にも、曹操の出世するためのやり方を認めないか、或いは、曹操自身の家系はいやしいもので見下げるべきか、わざと下げずんでものをいう批判の声もあった。敢えて言うが、曹操の祖父にあたるものが皇帝に重用された宦官。宦官がのさばっていた時代に、宦官の子孫は皆軽蔑されるのは百善同然であった。だから、曹操は贅閹の遺醜と呼ばれた。それゆえ、曹操の性格はかなり疑い深くなり、そのうえ、彼には「宁可我负天下人,不可天下人负我」という他人に理解しがたい信条を持っていた。そのため、曹操はやたらによく他人を自分の思い込みで殺めてしまう。このようなでたらめな事が相次いで起こっていたため、曹操は批評家の的にされてばかりの人物となった。しかし、これでも、曹操の歴史における功績を抹殺することができない。
曹操と織田信長は異なる国と異なる時代に生きていた人なのに、なぜ二人はよく比較されていたのでしょうか。それの原因として、まず、ふたりの生活の環境から考えると、織田信長は管領の斯波氏·畠山氏の家督争い、将軍家の後継者問題などを原因として十五世紀の中期の応仁の乱のあと、日本の歴史には前例なき残酷な戦国動乱時代に生きていた。同じく、曹操は西漢末期の外戚と宦官の間で政権交代を繰り返して、各地軍閥勢力の拡大時期に身を置かれていた。時代の違った歴史背景だったが、案外いろいろな共通点がある。それはどちらも中央集権を維持できる帝の力が衰えていた上、諸侯の力が過剰に
2
1
強くとなった混乱の時代とみられてもよい。又、このふたりとも、後世の史学者に「天の寵児」と呼ばれている。ともに少年のごろ、常人とは違い、常識では考えられない行為を日常茶飯事のようにしたことで、よく周りから性根の悪い子供だと言われていた。驚いたことには、彼らふたりとものかなりの軍事才能である。勝利した戦は大小あわせて数え切れないほどあった。特に有名なのは織田信長の桶狭間の戦いや、曹操の官渡の戦いである。どちらも寡を以って衆に当たる戦で、それもまだ、世界的に指折りのものでした。そんなに厳しい状況でも、尻込みなどまったく考えず奇想天外なアイデアを思いつくことで、歴史の動きをまさに意のままに変えたことは英雄の素質があったこそできた芸当だと思われる。しかし、そのだけの大物はみずから自分を肯定し、英傑と見なし、さらに遠大な志望を抱くようなことがよくある話だと思う。曹操と織田信長は度胸がある上、計略も大層なもので、部下に慕われ、やがて偉業を作ったことで、彼らの名は後世に広くに伝わるができたと考えられている。しかし、ふたりの最後は、われわれからみれば、あまりよいものではなかった。信長は自らの部下明智光秀に謀反され、やもえず自害したが、曹操は自分の病を治そうとした名医華佗を殺めたせいで病死した。まさに、「奢れる者も久しからず 唯春の夜の夢のごとし 猛き者もついには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」。 日本戦国時代では、いづこも戦火は飛び散り、皆の衆が怯えきる年代の中で、なぜ彼らだけが私達に驚嘆させられることができるのかは今までいろんな学者に研究されてきた。それはおそらく、みたところ勢い猛の軍勢に直面する時、一般のものではいくら胸に成算があっても、部下に見放された将軍一人だけでは、なんの役にも立たないだろう。ということは、戦の前にいくら英明な将軍と勇猛な兵士は一丸とならなければ、必ず負け戦を喫してしまう。織田信長と曹操はそれぞれの乱世にで、いかに人材を集まり、また、崇高なる理想を抱く、栄耀にも重んじるもののふを征服し、自分に忠誠を尽くし、戦を勝利することを納めようとしていたと、さらに、人の才を見分けること、使いこなすこと、管理することはどれもふたりが長けたところである。かつて有名な文士魯迅は「曹操是一个很有本事的人,至少是一个英雄,我虽然不是曹操一党,但总是非常佩服他,在识人,用人,治人方面深谙为人之道。」と評価し、毛沢東主席も「这个人很行,笼络人心的确有一套,其治人笼心之道更加道出为人的真谛。」と批評したことがあった。本文はふたりそれぞれの家臣を中心にして、家臣に対する選び方や使い方と管理の
3
32