4、 「到底(とうてい)」
Ⅰ、中国語における意味:
A、物事の結果・結局のことを表す。結局。案の定。やはり。やっと。
(17)3ヶ月も待って、やっとまとまった大雨が降り出した。
B、疑問文に用いて、明確な結果若しくは答えを追究・追問を表す。一体全体。一体。
(18)今日一体何人のお客さんがくるの。
C、現状強調を表す。さすがに。やはり。なんといっても。
(19)子供はやっぱり子供だ、泣いてからまた遊びに行った。
Ⅱ、日本語における意味:
A、(下に打ち消しや否定の表現を伴って)どうやってみても。どうしても。所詮。
(20) 君にマラソンなんて、到底無理だ。
現代日本語の「到底」はもっぱら否定の場合に用いられ、否定のムードを強める作用を働くのに対して、中国語の“到底”は肯定・否定・疑問の場合ともに使える、場によって、ムードを強める働きをする。
同じく否定文で・同じ事柄に使われる場合を考察してみると、日本語の「到底」と中国語の“到底”は「結局不可能」という意味では共通するが、日本語の「到底」は「どうやって見ても不可能だ」という感嘆のニュアンスがある。それに対して、中国語の“到底”はやや冷静な判断で、感嘆など強い主観的な感じがない。例えば、同じくマラソンの例、
(21) お前はマラソンなんてやっぱりだめだ。
日本語の「到底」と中国語の“到底”は「結局」・「最終」という字面原義で共通するが、日本語の「到底」の意味は「可能性を否定する」まで収縮しているため、両者は可能性を否定する場合しか接点がない。
「到底」に感嘆のニュアンスは否定的呼応形式により顕在化される。意味の変化と文構造(つまり呼応形式)条件の規定はその主観的表現要素の形成の要因であると考えられる。
三、 まとめ
以上幾つかの例で、日中漢語副詞(特に主観的表現)の区別を簡単に分析した。
主観的表現と言う特徴はまず和語の副詞に現れる。例えば「まったく」の否定的な意味合い、「なかなか」の感嘆的ニュアンス、「せめて」の一点張りのような固執するニュアンス、「せっかく」の大事さを重んずるニュアンスなどなど。
日本語における漢語副詞の主観的表現の出現は、個々の語の個別的な要因のほか、日本語、特に口語の感覚的な性質に原因があると考えられる。日本語の文語と口語は全く違う特徴を示している。文語は理性的、分析的或いは抽象的なもので、その語彙は漢語を主とする。それと対照的に、口語は感覚的或いは具象的なもので、その語彙は和語を主とする。両文体の相違は実際、中国語と日本語の相違を反映していると考えられる。
漢語副詞は導入された後の長い間、知識人の文章語(書き言葉)として使われてきた。それから徐々に庶民の日常言語生活に浸透していって、口語の中に吸収されたのである。その書き言葉から話し言葉へ変化する過程では、もともと理性的、分析的で、表意文字の漢語副詞は、口語の感覚的環境の中に適応し、その表意性文字の性格が薄れ、表音性文字へ変わりつつあり、現在に至っては、多くの場合、それは漢語とは意識されない、漢字ではなく、仮名で書くようになった。そういった中で、漢語副詞の共起成分も変わり、意味も少しずつずれていった。そして、新しい意味の生成や類義語との意味用法における役割分担、および人々の認知態度などさまざまな個別的な原因によって、主観的表現が付与され、主観的表現の新しい乗り物として、感覚性に富む日本語の中に溶け込んだのではないかと考えられる。