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1) 知識が増えたにもかかわらず、深みのある説明ができない状態 2) 知識が増えたために、かえってわかりやすい説明ができない状態 3) 簡単なことにもかかわらず、どう説明すればいいかわからない状態 4) 話を簡単にしすぎるために、かえって説明を理解してもらえない状態 52.
筆者は、スランプを突破するにはどうすればいいと述べているか 1) 簡単にあきらめずに、なぜスランプになったかをよく考える。 2) あきらめずに知識をさらに深め、本質は何かを徹底的に考える。 3) 単純化できた話を振り返り、わかりやすい説明とは何かを考え抜く。 4) 十分に知識を深めたうえで、単純化するにはどうすればいいか考える。
児童文学の多くは、子どもの視点で書かれています。もちろん作者は大人なのですが、子どもの考え方や、子どもの目の高さから見える風景を描いています。当然のことながら大人が読む場合、そこにどうしても①視点のズレが生じます。
けれど大人はみな、昔、子どもでした。子どもを卒業して大人になったと思っているのが、子どもだった自分を抱えたまま大人になったと思っているのかは人それぞれでしょうが、尐なくとも、だれもが子ども時代を過ごしてきています。大人の視点で読みながら、子どもの頃の視点を思い出すことは可能です。自分の中の子どもに寄り添って、一緒に読むとでも言えばいいでしょうか。 子ども時代に読んだ本を再読すると、同じ場面なのに、子どもの頃の自分と今の自分とでは、感じ方や受け取り方がちがうのに気づくことがあります。それは今の自分が、自分の心の中にいる子どもと向かいあう一瞬です。そうした機会に、今の子どもたちへのまなざしを新たにすることもあるでしょう。たとえば、「近頃(ちかごろ)の子どもにはこまったものだ」と文句を言っていたけれど、子どもの頃の自分はどうだったのか?と問い直す。大人であることにあぐらをかいていた(注)自分を省みる。そんなことが起こるかもしれません。 ②どうぞ、「子どもの本」を開いてみてください。 (ひこ?田中『大人のための児童文学講座』による)
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(注) あぐらをかいていた:ここでは、何の疑問も感じずにいた 53.
①視点のズレが生じますとあるが、なぜそうなるのか。 1) 大人は子どもの世界がよく理解できないから 2) 大人は子どもの視点に合わせて読もうとするから 3) 大人の見てきた風景と子どもの見ている風景はちがうから 4) 大人の視点から子どもの視点で書かれたものを読むから 54.
筆者によると、視点のズレを解消するためにできることは何か。 1) 大人の視点で今の子どもたちの気持ちを考えて読む。 2) 大人の自分と子ども時代の自分を比べながら読む。 3) 子ども時代の自分の視点を思い出しながら読む。 4) 子どもに読んでやるような気持ちで読む。 55.
②どうぞ、「子どもの本」を開いてみてくださいとあるが、筆者はなぜそのように述べていると考えられるか。
1) 今の子どもの考え方を知ることで、大人である自分を省みることもあるから
2) 心の中にいる子どもの頃ころの自分に気づくことで、これまでの見方が変わることもあるから
3) 児童文学をよく理解することで、近頃ちかごろの子どもの問題点を発見できるかもしれないから
4) 子ども時代の本を再読することで、これまでの自分のことがよく分かるかもしれないから
ファースト?フードが世界中にひろがったのは、文化や人間の集合状態に変化が起こっていたからである。家族はこれまでほど安定したものではなくなったし、私的な生活、労働や遊びのパターンも個人的かつ多様になっていたのである。人間の接触が煩わしいものに感じる傾向も増大した。食事がもつ楽しみは
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感覚と社交の至上の快楽ではなくなった。それは他の行為のあいまに挿入されるものとなることが多かったし、それと平行して人間は食事を簡便に済ませることを望んだことも考慮すべきであろう。 (中略)
もちろん都市の食文化にとってファースト?フードが占める位置は、コンビニが買い物行動にたいして占める位置と同様、全面的ではない。しかし多種多様なレストランがいたるところに叢生(そうせい)(注1)してくるなかに、ひとつの均質化する力として割り込み、かつローカルな都市を世界的な規模にまでひろがった同一の網目に組み込むことは、無視できない力の兆候的現象なのである。
おそらくこうしたファースト?フードの経験は、意識されていることがら以上に、ほとんど意識されない感覚的な影響の方が大きいだろう。かつての食の内容からみると、貧困としかいいようのないメニューに慣れること、あえて社会的関係を破壊しようとしないでも、人びとはファースト?フードの利用によって、いつのまにか都市の遊民(注2)になっていくこと、そしてこの食形式の共有によってわれわれは奇妙なかたちで、われわれ自身をいつのまにか世界化していること、などである。 (多木浩二『都市の政治学』による)
(注1)叢生(そうせい)する:ここでは、多くできる (注2)遊民:ここでは、社会的関係をもたない人 56.
筆者によると、ファースト?フードがひろまった理由は何か 1) 人びとが人間関係や食べることに無関心になったこと 2) 新しい食のスタイルが人びとの好みに合ったこと 3) 人とのつながりや生活スタイルが変化したこと 4) 食にたいする人びとの嗜好こうが似てきたこと 57.
兆候的現象とあるが、それはどのような現象か。
1) 個々の都市の食文化のなかに、ファースト?フードが入り込んでいる。
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2) ファースト?フードの店舗数が、レストランのように増えている。 3) ファースト?フードが、都市ごとの多様な食形式を壊そうとしている。 4) ローカルな都市のレストランにファースト?フードの簡便さを取り入れている。 58.
ファースト?フードのひろがりが人びとに与える影響を、筆者はどのように考えているか
1) 食事や人間関係への興味を失い、人びとは簡便な生活スタイルを求めるようになる。
2) 人間同士の関係を弱めることになり、仕事や遊びに熱中する人間が増える傾向が強まる。
3) 知らないうちに人との絆きずなや食への関心を薄め、世界同一の食形式に慣れ切った人間を増やす。
4) 同じメニューに慣れることで、人びとはいつのまにか多種多様な食文化に興味を持たなくなる。
問題10 次の文章を読んで、後の問いに対する答えとして最もよいものを、1、2、3、4から一つ選びなさい。
まず、教育とは何か、ということから考えてみよう。さしあたってぼくは、教育とは、子どもを「社会の成員(大人)としてふさわしい存在」へと育て上げていくこと、と定義してみたい。
どんな時代、どんな社会の人びとでも、子どもを大人に育て上げなくてはならなかった。そのさいには、①社会の成員として「ふさわしい」あり方が何かしら想定されていて、それが教育の営みを導いていたはずだ。
その「ふさわしさ」は、大きく二つに分けられるだろう。一つは、働いて食べていけるために必要な能力、つまり農民なら農民としての、漁民ならば漁民としての、技能や知識。もう一つは、他の人びとのあいだでふさわしいふるまいができること――基本的なルールを守り、他の人びとと協力する態勢をとれること、自分に与えられた役割を果たし、その責任をとれること等々、つまり、他者との関係能力である。
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では、現代社会においては、どういうことが「大人としてふさわしい」のだろうか?教育理念を構築するとは、このことをあらためて考え、かつ共有しようとすることに他ならない。
だが、この「共有」ということはなかなかむずかしい。そこには、社会のあり方と人間の生き方をどのようなものとして思い描くか、つまりは、異なった社会観·人間観がさまざまに入り込み、衝突してくるからだ。
たとえば、ぼくが最初にあげた「教育とは、子どもを社会の成員としてふさわしい存在にすることだ」という定義に対しても、②反発を覚える人がいるだろう。「それは、社会的期待に子供を添わせようとするよくない発想だ。教育とはむしろ、子供の主体的な判断力を育てるものだ」というわけである。 この意見はしかし、「社会の秩序にただ従うだけでなく、主体的な判断のもとにみずからの人生をつくりあげ、社会のあり方をも批判的に検討する人間こそが社会の成員としてふさわしい」という近代的な人間観にもとづいている。これもまた、社会の側が子どもたちに寄せる「期待」の一種だと言わざるをえない。そして子供を放置すれば主体的·批判的な人間になるはずもないから、そのように「育て上げ」ようとしなくてはならない。
いずれにせよ、教育というものは、社会(大人)の側が子供に寄せる期待、もっと強い言い方をすれば、ある種の強制から自由ではない、とぼくは考える。重要なことは、「この社会の一員、つまり大人として生きていくうえで何が必要な条件なのか」ということをきちんと見定め共有したうえでの強制であるかどうか、という点なのだ。
(苅谷剛彦·西研『考えあう技術――教育と社会を哲学する」による) 59.
①社会の成員として「ふさわしい」あり方とはどのようなものか。 1) 子供を養い、社会において責任あるふるまいができること 2) 自立するために必要な能力を身につけ、自由に生きていけること 3) いつの時代にも通用する技能や知識を備え、他者に尊敬されること 4) 技能や知識を身につけ、他者とのあいだでうまく生きていけること