2. 1 中国の酒について
中国の酒造りの歴史は大変古く、2004年に、「今から9000年ほど前の賈湖遺跡で酒造りの痕跡を見つけた」という発見があり、世界を驚かせた。 歴史時代では殷(商)の王(今から約3100年前)が宮廷に3000人を収容できる「酒池肉林」を造ったという有名な逸話もある。秦の始皇帝、漢の武帝も造営した。
今から1800年前の『三国志』の時代には西域から葡萄酒が多く入ってきた。この時代では曹操の禁酒令、孫権の酒乱など、酒の話題が大変豊富になった。
6世紀の北魏時代、現存する最古の料理書『斉民要術』が著され、さまざまなお酒の造り方が紙かく残された。また、この頃には度数の高い酒も登場していたようで、「匂い嗅ぐだけで何日も昏睡した」という話もある。8世紀の唐王朝の時代、多くのお酒に関する漢詩が泳まれた。中でも、西域の砂漠を舞台とする「辺塞詩」ではお酒を情緒深く絡ませている。11世紀頃の宋代になると、蒸留酒である白酒が多く造られるようになり、現在に至っている3。 中国の蒸留酒の始まりについてはあまり分かっていない。現在では各都市で1万を超える地の白酒が造られるなど、中国人にとって身近なお酒になっている。
今から100ねんほど前、ドイツが中国の山東半島へ進出した時、ここにビールとワインの製造工場を造った。このため、現在でも中国山東省ではビールとワインの生産が盛んである。今日、中国を代表する高級白酒は五粮液である。 2. 2 日本の酒について
日本の酒は土着の酒と、渡来人が伝えた酒の2種類が知られている。土着の酒については米を噛んで吐き溜める「口噛み酒」が知られ、「醸す」という読みは「噛む」が語源になったという説がある。一方、渡来人が伝えた酒は現在の「甘酒」にあたる酒と考えられている。これは麹を原料とした醸造法で、大王の一族が朝鮮半島から技術者を連れてきたのが始まりという。
古代日本のお酒は朝廷の造酒司を中心に更なる開発?改良が進められており、平安時代中頃の10世紀には現在のような日本酒の醸造法が確立したいた。 平安末期、朝廷が衰えると酒造りの技術は大阪?奈良などの大寺院が受け継ぎ、「僧坊酒」として名を博す。戦国末期、津島にもゆかりのある織田信長はこれらの寺院に対して徹底的に弾圧を加えた。これにより僧坊酒の高度な技術は流出?分散し、各地で地酒が造られる下地になった4。
今から約600年前の1404年、長崎県に、朝鮮半島からアルコール度数の強い蒸留水が送れてきた。これが日本で最初に確認できる焼酎である。その後、琉球からも泡盛の製法が伝来し、焼酎に九州各地で造られるようになった。 豊臣秀吉は最晩年(1598年)、京都の醍醐寺で盛大な花見を催し、全国から銘酒は現在ではほとんど残っていない。
3. 谭蓉 2011年《中日酒文化的发展史》第18期 魅力中国出版社 p11-19 4. 谭蓉 2011年《中日酒文化的发展史》第18期 魅力中国出版社 p19-20
2
江戸時代初期、それまで年5回醸造していた日本酒造りを幕府が「年1回冬期のみ」の醸造に製限した。これは現在の酒造りにも継承されている。
明治以降になると、酒造業は製法も設備も近代化、安全に生産ができるようになった。今から約400年前、醍醐寺に博多のわりぬき酒、大阪の天野酒、伊豆の江川酒、備後の三原酒など、各地から銘酒が集められたという5。
3. 中日両国の酒文化の相違点 3. 1 酒の種類と名付け
中国の酒類は多くて、その中で世界の蒸留酒の一つの白酒は香型に分けて、濃い香り型、すがすがしい香り型、米香型など。白酒は自分の特色を持って、主に3種類の形式がある。、産地によって命名して、“国の酒”の称で有名な貴州のマオタイ酒、四川の瀘州老窖、山西汾酒など。その次、原材料によって命名して、たどえば五糧液、米、もち米、小麦とトウモロコシの5種類の穀類は原料として醸造した。中国で唐代に“酒”は“春”と称して、たくさんの有名な酒は春を命名して、春の詩情を加えて、春は酒に代わって、これは唐代の詩歌の繁栄は反応です。“春”によって命名したたくさんの酒があって、いままで皇都春、秦淮春などの10種類がある。今の剣南春、景陽春はこの伝統を保留してる。
日本の酒の命名と中国の酒の命名は多くの似たところもある、産地によって命名した“天野酒”“江川酒”など、しかし、中国と異なるところは、日本は植物によって命名する酒がたくさんが、たとえば“松竹梅”“寒梅”“菊水”など、更に酒は動物によって命名して、“白鷹” “ツル”など、その外大自然によって命名した。日本人が心から自然に対して愛することがある、自然と日本人の共存する自然観を見抜くことができる。 3. 2 酒器の使い方
酒文化の発展に伴って、中国の酒器も変更を体験した。古代火の使うこと、人間はこのような原始の生活様式を終えるから、農業の興ること、新石器文化の時期に陶器の出現した、酒器の材料を作るのは主に陶器、角器、竹の木製品など。商?周の時期、酒造業の発達しているため、青銅器の制作技術は高まって、中国の酒器はかつてないの繁栄に達す。青銅器の酒器から磁器まで再び玉細工まで、再び今日のガラスの酒器まで、酒器は確かにとても大きい発展を体験した。しかし中国の酒器の使い方と酒を飲む者とても大きい関係を持って、酒器は酒を飲む者の身分を象徴して、だから酒器の中で大きい学問埋めると言う。
日本でいろいろ酒器がある。たとえば、盃(さかづき):「盃を交わす」「盃を取らせる」といった表現があるように、日本文化の中では盃はたんに酒を飲む容器であるだけではなく、人間関係、名誉、格式などのさまざまな文化事象
5.谭蓉 2011年《中日酒文化的发展史》第18期 魅力中国出版社 P19
3
と関係した複雑な媒体である。今日の私たちが思い描くのは「塗り盃」だが、江戸時代後期には陶磁器の盃も用いられた。 徳利(とっくり / とくり):今でも酒を注ぐのに用いられているが、近代に入り、瓶売りが一般化するまで、量り売りが一般的で、酒屋は徳利に入れて酒を販売していた。販売用の徳利は個人の所有ではなく酒屋の貸し物であることが普通で、酒屋の屋号が大きく書かれていた。江戸時代以前は上方と江戸では色が違っていた。上方では、五合あるいは一升が入る、茶色がかった陶器。江戸では、ねずみ色の陶器か取っ手のついた樽であった。 猪口(ちょこ / ちょく):現在では徳利から酒を受け、飲むのに用いる小さな器だが、徳利とセットで使うようになったのはそんなに古いことではない。江戸時代では上方でも江戸でも、宴の初めのうちは盃で酒を受け、宴も半ばを過ぎ座がくだけてくると猪口に変えたという。利き酒で使われる猪口は利き猪口と呼ばれる。 銚子(ちょうし):現在も使われる、燗をつけた酒を移し入れる器を指すが、時代を下るに従って小型になってきている。江戸時代、上方では御殿から娼家に至るまでどこでも銚子で燗をつけていたが、江戸では銚子は正式の膳である 式正(しきじょう):にのみ使うものであったという。現代では銚子と徳利はほぼ同じものとして扱っているが、江戸時代には別物であった。江戸時代中期ごろまでは、宴も初めのうちは銚子を使い、三献すると徳利に切り替えた。やがて初めから徳利を用いるようになり、江戸時代末期には大名ですら酒宴で徳利で酒を飲むようになったという6。 土瓶主に茶を飲むための物だが、千代香のように焼酎を温めるのに使用する酒器もある。
以上は日本の酒器の使い方だ。中国の酒器の使い方を通じ中国の文化の中で尊卑が違うことと地位の高低見抜くことができて、中国がとても長い時間の内に封建社会の中である。日本の酒器は社会の発展の変化に従った。日本の酒器の大部分はすべて小さくて、日本人は酒を飲む時小口を偏愛して、これも日本人が慎重な、保守的な性格ことを見抜くことができる。 3. 3 酒の飲み方とマナー
3. 3. 1 「酒を勧める」について
中国には相手に酒を進めるという習慣がある。宴会の席では友達の間や主客の間において、お互い「もう一杯どうぞ」と酒を勧め合う。このような習慣によって、相手に対する自分の思いやりと友情の気持ちなどを表現したり、伝えたりする。そして双方が飲める限界の量やそれを超えたとき、相互に初めて友情として認め合う。
しかし日本では、宴会で酒をすすめない。更に相手に酒を飲むように強要しない、自分の願望によって飲むのだ。宴会の上でそのままで酒を飲んで、普通は第1杯は必ず飲む、第2杯は断ることができる。
6.中田浩二 2003年「日本酒」 日语知识出版社 P68-70
4
3. 3. 2 宴会のマナー
中国の宴会ではとにかくありとあらゆる口実で酒を勧まされる。だが、どれだけ酒を勧まされても酔った様子を表に出してはいけない。すなわち、たとえ酒の場であっても絶対に緊張をくずさず、最後まで崩れない人こそが中国の社会では尊敬されるのだ。宴会とは娯楽ではなく自分がいかにしっかりした立派な人間であるかを証明するための、ある意味においては「戦の場」なのだ。つまり、中国人にとっての宴会、もう一つのビジネスなのだ。来る日も来る日もパーティーに出続け、そこで酔いを見せることなく帰ることによって、他人の信頼を勝ち得ていく。これが中国社会の付き合い方である7。しかし、日本人の場合、飲んでも日本人の場合、飲んでも羽目を外さない人は「腹を割って話し合ってくれない」とか「付き合いが悪い」「薄気味悪い」などという理由で評価が下がるようだ。そして醜態をさらした人間の方が何となく信頼できると評価される。多くの日本人は夜酒 を飲むのがすきで、彼らはそうして、一日の仕事の疲れを取り除けようとする。日本では女性も酒に強いことがよいと思われる。もし自分の夫が仕事を終えてから、家で夕食をしないで、外で食べれば、妻は喜ぶのである。それに女性が酒を飲みすぎて、酔っ払ってもそんなに変なことではないと思われる。
中国で、いくつか角度の上から酒を飲むのも仕事だと言って、日本が働いて酒を飲んで区別は大きくて、酒を飲むことリラックスすることができる、酔っ払っても関係していないで、ただ圧力の方法を軽減して、日本人が仕事に対応するのはきわめてまじめだ8。 3. 3. 3 「乾杯」について
中国では、敬意の表明として杯の酒を飲み干すという文化がある。宴席で何度も行う乾杯には、基本的にアルコール度数の高い白酒とかビールを使う。乾杯用には、小さいグラス(“小酒杯”という)を用いる。飲んだ後で、相手に向けて杯を傾け底を見せたり、逆さにして、飲み干したことを示す習慣がある。ただし、「干杯(カンペイ)!」を発声した人が直後に「随意(スイイー)」と言ったときには、飲み干さなくてもよい9。円卓での宴会では、客と招待側とが同数で交互になるように着席する。乾杯は、招待側の要人が始め、次に客の主賓が行うというように、交互に、やや時間を空けて行うことが多い。当然、乾杯の前に簡単なスピーチが要求される。このとき、もし漢詩が詠めれば、尊敬される。
日本における乾杯は、代表者の音頭と共に、おもに酒を注いだ杯(グラス)を掲げ、「乾杯」を唱和してグラスを掲げ、飲む行為。おもに会食や酒宴の初期に、食事や飲み物に手をつけていない段階で行われる。食事を開始するきっかけとして行われることが多い。おもに慶事の場合に行われ、弔事においては
7. 朱玲莉 2011年 《中日酒文化比说》第5期 《湖南吉首大学学报-社会科学报》P34
8. 严雪燕 祝葵 2010年「中日酒文化についての比較研究」第35期 科技信息出版社 P26-28 9. 土屋弘明 2008年《举杯共饮日本酒》 株式会社平凡社 P112
5
献杯(けんぱい)と呼び変えられる10。
古代に神や死者のために神酒を飲んだ宗教的儀式が起源らしく、転じてやがて人々の健康や成功を祝福する儀礼に変化した。現在の様式は日本国内で行われていたものではなく、海外から持ち込まれたものである。乾杯や献杯は、マナー?しきたりの一種であって、地域によって格段の差があるわけではない。厳格な手順に沿わないからといって指摘や抗議をされることは尐ないが、頻繁に行われる行為なので、その地域のマナーや風習を理解することが必要とされる行為である。中国で「乾杯」という時は、普通は全部飲んでしまうという意味なのだが、日本では、飲み尽くさなくてもいいのだ11。昔の中国人は、お酒を飲みながら、詩を吟ずる好みはあって、そのおかげで、芸術ともいえる多くの詩が残された。李白もそうであった。お酒なしには、美しい詩句が遣ってきてくれなかったのだろう。
日本人は中国人に比べて、酒に弱いようであり、量もそんなに飲めないようだ。日本人は酒を飲んで歌を歌ったりするのを好み、ある時は豪放な性格を表現し、またある時はもの悲しく辛い事柄を吐露する。 3. 4 酒を飲む女性に対する態度
中国では、女性は酒を飲まないことが良いと思われが。女性はふだんは酒を飲まなかった。新年や祝日のたびに、興を添えるために尐し飲むことがある。日本では、女性は酒に強いことが良いと思われる。日本に多くの居酒屋がある。いわゆる居酒屋はサラリーマンが仕事以外の時間圧力を釈放するので、酒を飲んで、チャット、心身のゆるやかな社交場所である。日本における、たくさんの赤い灯籠を掛けている居酒屋がある。夜になると、洋服を身につけていて疲れているサラリーマンを引っ張っていることを見て、居酒屋に潜り込む。居酒屋の中でいろいろな酒とちょっとした料理を提供する。その上価格も安い。居酒屋の中の雰囲気は楽で、時にはまた尐し騒がしくて、居酒屋に行くのはサラリーマンの男性だけではない。女性も道連れになってそこで談笑して食事をする。しかし中国では、女性が道連れと酒を飲むのは比較的に尐なくて、特に女性が酒を飲むことに賛成するのではない。しかし、社会の進歩にしたがって、中国の女性の観念も日本と同じになりつつある。日本人が夜酒を飲むのがすきだ。夜酒を飲むことによって一日の仕事の疲れを取り除けようとする。そのほか、日本人は中国人のように、同じ場所で飲むことをしない。彼らは味を変えるために、よく場所を変える。それを「梯子のみ」という。日本では、もし自分の夫が仕事を終えてから、家で夕食をしないで、外で食べれば、妻は喜ぶのである。中国では、そんな観念はない。妻は夫が仕事が終わってからすぐに家に帰ることを望むだろう。
三、結論
10. 徐少华 2001年《中日酒文化比较研究》 北京中国对外翻译出版社 P44 11. 徐寒 2003年《中国酒文化宝典》 中国大地出版社 P138-140
6