P28
あるいは「淵(えん)として」の句を四句の後に移すべきか。「帝」天帝はふつう天地創造の造物者とされている。『老子』はそれをふまえて、それをのりこえる創始の始源を「道」として考えたのである。
5 天地は仁ならず(理想の政治(2))
天地の造化(ぞうか)のはたらきには、仁愛(いつくしみ)の徳があるわけではない、藁(わら)で作った犬ころのように万物をとりあつかって、それを生み出しては棄(す)てている。聖人の政治のやりかたにも、仁愛(いつくしみ)の徳があるわけではない、藁で作った犬ころのように万民をあつかって、用がすめば知らぬ顔でそれを放任している。
天と大地とのあいだのこの世界は、いわば風を送り出す吹子(ふいごう)のようなものであろうか。からっぽでありながら、そこから万物が生まれ出て尽きはてることがなく、動けば動くほどますます多く出てくる。それが、天地自然の無心のはたらきだ。
口かずが多いと、しばしばゆきづまる。黙ってからっぽの心を守っていくにこしたことはない。それが聖人のおのずからなやりかただ。
天地は仁(じん)ならず、万物(ばんぶつ)を以て芻狗(すうく)と為す。聖人は仁ならず、百姓(ひゃくせい)を以て芻狗と為す。 P29
天と地との間(あいだ)は、其(そ)れ猶(な)お橐籥(たくやく)のごときか。虚 (むな)しくして屈(つ)きず、動きて愈々出ず。多言はしばしば窮(きゅう)す、中(ちゅう)を守るに如(し)かず。
天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。 天地之間、其猶橐籥乎。虚而不屈、動而愈出。 多言数窮、不如守中。
天地自然のはたらきは、慈愛に満ちた仁の徳を行なっているようにみえる。しかし、そのはたらきは仁の徳などにしばられたものではない。それをこえた、非情な、自然無心なはたらきである。聖人の政治も同じこと、からっぽの無心でいて、慈愛にあふれたおしゃべりなどはしないものだという。政治家が猫なで声でやさしいことをいうときは、くせものである。政治を意識させない政治が、ほんとうの平和な政治であろう。
「仁」はいうまでもなく儒家(じゅか)の提唱した慈愛の徳目である。ここは、それに対抗したことばである。「聖人は仁ならず」というのは、儒家的な聖人像を思う人びとの意表をつくことばであって、同時でもショッキングピンクなひびきをもったに違いない。「芻狗(すうく)―わらの犬ころ」というのは、祭礼に用いられるもので、祭りのあいだは手厚く並べられるが、祭りがすむとわ p30
らくずとして棄(す)てられる(『荘子』天運篇第四章)。無為自然のはたらきが、 人情や徳目をこえた非情なものであることを述べようとする喩えである。「吹子(ふいごう)」は、鍛冶屋や鋳物師が火力をあげるのに使う送風器。からの箱あるいは袋で、把手を押したり引いたりして強い風を送り出す。からっぽであるこそ、いくらでも空気が入ってまた風になって出てくるわけである。「多言」はおしゃべり。ここでは仁愛に関係する温いことばを意味するであろう。それが「しばしばゆきづまる」のは、それを裏づける実行がとてもおしゃべりについていけないことから起こるはずである。甘いことばに馴れて増長する不良児の例も思いあわせてよいであろう。法家の韓非子は、「民衆は愛情をかけられ
ると図にのるものだ。」といった。帛書では、甲?乙本とも「多聞」と有り、想爾注本と合う。それに従えば、おしゃべりではなくて博識の否定となる。「学を絶てば憂いなし」(第二十章)などという『老子』の主旨に一致しているが、上文との連続の意味はさらに薄くなる。
いったい、この章は三段に分かれ、第二段は第一段の前半をうけて天地の生成を述べ、第三段は第一段の後半をうけて聖人の政治を述べたものとして解訳したが、もとはそれぞれ独立した文章であったらしい。とくに、第三段は処世的な多言のいましめとみて切り離すこともできるわけで、もしそうするなら、「中を守る」の「中」の意味は、多言にならないほどほどの発言という解訳でもよいことになるだろう。「中」にはまた心のなかとみる解訳もありうるが、上文との関係から前の章の「沖」と同様に「盅」の借字として読んだ。 p31
6 谷神は死せず(「道」のはたらき(2))
谷間の神は奥深いところで滾々と泉を湧き起こしていて、永遠の生命で死に絶えることがない。それを玄牝(げんげん)―神秘な雌のはたらきとよぶのだ。 神秘な雌が物を生み出すその陰門(でぐち)、それをこそ天地もそこからで出てくる天地の根源とよぶのだ。はっきりしないおぼろげなところに何かが有るようで、そのはたらきは尽きはてることがない。
谷神は死せず、是れを玄牝(げんげん)という。
玄牝の門、是れを天地の根という。綿綿(めんめん)として存するが若く(ごと)、それを用いて勤(尽)きず。
谷神不死、是謂玄牝。
玄牝之門、是謂天地之根。綿綿若存、用之不勤。
万物生成の無限のはたらきを、女性の生殖の神秘になぞらえて詩的な押韻文であらわした章である。 p32
「道」ということばはないけれども、「道」のはたらきと同じものを語っていることは、いうまでもない。
「谷神」の「谷」を「穀」の借字(しゃくじ)とみて、生成長養の神とする説もあるが、文字どおりに谷の神とするのが勝(まさ)る。『老子』中では、たとえば「上徳は谷のごとし」(第四十章<旧四十一章>)というように、谷をものごと根源あるいは始源として、理想的にあらわす例が少なくないからである。「玄牝」は、「玄」が第一章で「玄の又た玄」とあったのと同義、「牝」は牡に対する雌として、女性であり、母性である。それが生殖の力をもつ豊饒の神として、天地のの根源ともなるのは、自然である。「綿綿(めんめん)」を「はっきりしないおぼろげな」と訳したのは、やや特殊である。「民民(みんみん)」の借字であって、「冥冥(めいめい)」の意味だという高亨(こうこう)の説に従ったのである。文字どおりの意味では連続のありさま。永遠につづいていて何かが存在しているようだ。」となる。「勤きず―尽きはてることがない」と読んだ最後のことばも、王弼(おうひつ)の注に従って「労(つ)れず」と読むのが多いが、『淮南子』の注に従って「勤」を「尽」の意味に見るがよい。これも高亨の説による。小川環樹博士も同じ。
7 天は長く地は久し(無私のすすめ)
天は永遠であり、地は久遠である。天地の自然がそのように永久の存在をつ p33
づけていけるのは、天も地も無心であって自分で生きつづけようなどとはしないから、だからこそ、長い生きつづけることができるのだ。
そのゆえ、「道」と一体になって天地の道理をわきまえた聖人は、わが身を人の後におきながら、それでいておのずからに人に推されて先だち、わが身を人の外側におきながら、それでいておのずからに人に招かれてそこにいる。それは、私心私欲をもたないからではなかろうか。だからこそ、かえって自分をつらぬいていけるのだ。
天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自ら生ぜざるを以つて、故に能く長生す(ちょうせい)す。
是を以つて聖人は、其の身をあとにしてしかも身は先んじ、その身を外にして而も身は存す。其の無私なるを以つてに非ずや、故に能くその私を成す。
天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。
是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私、故能成其私。 わが身にこだわることをやめよと、この章はいう。何事も自分を中心に 考え、自分の思いどおりになることを望むのは、人情である。おれがわたしが p34
と、人をおしのけてその前に進みたいと思うのも、競争社会に養われた悪いくせである。そうしないと敗北者になってしまうという強迫感、あわれなちっぽけな人間の苦闘である。天地の悠久に比べて、なんとはかないあがきではないか。天地自然の悠久の生命は、自分の永遠を求めたりするとうな、ちっぽけな意識を離れたところにこそある。人びとが生命をちぢめるのは、わが生命を意識してかまいすぎるからだ、ともいわれている(第五十章)。おれがわたしがと自分をむき出しにしていると、敵もできて足もとをすくわれる結果になる。