自分を放ち棄てて無私になること、つまりは我欲を棄てて無欲になること。「私を少なくし、欲を寡くす」(第十九章)というように、「私」は「欲」と連なっている。「道」と一つになって自然な流れに身を任せていくなら、そこに自分の個性をつらぬく道がひらけてくる。
「天長地久」は、天皇と皇后の誕生日をそれぞれ天長節?地久節といった、そのことばの出典である。天地の悠久をたたえるめでたいことばとされてきた。聖人がその身を後にしていてかえって前に立つというのは、同様の言葉が第六十六章にもみえる。そこでは「民の先頭にたとうとするなら、必ず後になれ」とあって、世俗的関心があらわで老獪な策謀のようにもとれる。ここで、「無私」であるから「私」がとげられるというのも、そのように逆転して読むこともできるだろう。『老子』では政治や処世の現実的な関心も強いから、確かに世故にたけた狡猾ともみえることばもあるのだが、それにとらわれていては p35
『老子』の真義はつかめない。「その無私なるを以つてに非ずや」の句、「非」と「耶」の二字で反語になっているが、その二字のないテクストが敦煌本などにある。「其の無私を以て、故に」と下につづいて、上文の「其の自ら生ぜざるを以て、故に」と合致する。二字を除くべきかとも思うが、新出の帛書も反語になっているので、そのままにした。
8 上善は水の若し(ごと)(不争の徳(1))
最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのとうなものである。水は万物の生長をりっぽに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。そこで、「道」のはたらきにも近いのだ。住所としては土地の上が善く、ことばでは信義を守るのが善く、政治としては平和に
治まるのが善く、事業としては有能なのが善く、行動としては時にかなっているのが善い。すべて、水を模範として争わないでいるのが、善いのだ。 そもそも、競い争うようなことをしないからこそ、まちがいもないなのだ。
上善は水の若し。水は善く万物を利して而も争わず。衆人の悪む所に処る。故に