05章-飞鸟文化 - 图文

2019-04-09 14:06

第五章 国際色豊かな仏教文化ーー飛鳥文化 (538~710年) 第1節 飛鳥文化の形成

要点: a. 飛鳥文化の時期 ①蘇我氏と物部氏と対立→崇仏論争 ②最初の仏教文化→博士と儒学、仏教の百済から伝来。 b. 飛鳥文化の性格 ①渡来人文化 ②中国六朝文化?百済?高句麗文化の影響など c.寺院と仏像→推古朝の仏教保護政策→寺院建築が中心 ①寺院の建立:四天王寺?中宮寺?法起寺?法興寺?飛鳥寺?法隆寺、 ②仏像:中宮寺半跏思惟像?法隆寺百済観音像?法隆寺金堂釈迦三尊像 ?飛島寺丈六釈迦如来像?法隆寺夢殿救世観音像?広隆寺半跏思惟像 d.絵画と工芸 ①紙墨の伝来 ②玉虫厨子の扉や台座に描かれた?須弥座絵?天寿国繍帳?獅子狩り文様錦?伽藍配置 e. 暦の伝来 ①百済の観勒、暦本、天文地理書 ②暦法の採用

4、5世紀、地方の豪族を制圧し大和王権(大和朝廷)が全国を統一した。6世紀の中ごろに、日本に仏教が伝われてきた。この時、都は奈良県の飛鳥に置かれていた。聖徳太子は蘇我氏とともに仏教を広め、大王(天皇)を中心とした国家建設を目指した。この理想は7世紀になっても継承され、大化の改新や壬申の乱を経て律令国家の完成へとつながっていく。

1.飛鳥文化成立の背景

飛鳥文化は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。当時の宮の所在地の飛鳥をとって、飛鳥文化と呼ばれている。時期としては、一般に6世紀半ば、仏教が百済から公伝した頃から、7世紀中頃に大化改新が行われる頃までの約一世紀の文化である。

?大和朝廷の動揺 当時、隋帝国の出現(581)によって、6世紀末から7世紀始めにか

けて、東アジアには大きな国際関係の変化が見られるようになった。この変化は、大和朝

84

廷の矛盾をあらわにしていった部民制や国県制という、それまでの大和朝廷の支配に代わる、新たな支配体制の形成を促すこととなった。5世紀末から、大和朝廷の発展に伴って中央豪族たちは土地や人民の獲得に腐心にして、それを背景に朝廷内部の豪族の勢力争い、大和政権と各地の豪族との対立は日増しに激しくなっていった。こうした対立抗争に巻き込まれた大和国家の支配は、豪族の王位継承干渉により危機に陥った。そのうえ、朝鮮半島では高句麗、新羅の国勢が盛んとなり、562年、ついに加羅の諸国は新羅に滅ぼされた。この間、朝鮮政策を主導していた大連の大伴氏が勢力を失い、蘇我氏をはじめ有力豪族や聖徳太子らは、隋?唐の新たな法治体制を日本に移植して変革を試みた。

おおむらじ

おおとも

こうくり

しらぎ

ぶみんせいくにけんせい

?仏教の伝来 インドで興った仏教は、67年中国(後漢)に伝来し、その後、384年に

朝鮮半島の百済へ伝わり、6世紀半ば、538年(日本書紀によると552年、元興寺縁起などでは538年)、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上し仏教伝来が始まったといわれる。その後、推古天皇の時代に「仏教興隆の詔」が出され、各地で寺院建設も始まった。命ある者がこの世で受ける恩の中でも最も大切な親の恩に対して、感謝をし冥福を祈るために仏像を身近に置きたいと考えた。ここに仏教信仰が始動した。

日本に仏教が伝来した年代については538年と552年説がある。『日本書紀』によると、欽明天皇13年(西暦552年)、百済の聖明王が朝廷に遣いを送ってきたと記述されている。その一人が怒利斯到契で、釈迦仏(金銅製)一体、幡蓋、経論数巻を献上した。別の資料(『元興寺伽藍縁起』?『上宮聖徳法王帝説』等)によれば、仏教が日本に伝来したのは、「志帰嶋天皇(欽明天皇)の時代、戊午の年10月12日、百済国の主明王(聖明王)が初めて渡ってきて、仏像?経教、僧等を奉る。」とある。欽明天皇が即位した年を531年としているので、仏教伝来は538年となる。現在は仏教公伝を538年の説のほうが有力である。どちらにしても、仏教の伝来は公式に百済の聖明王から、はじめて大和朝廷に仏像と経論などが贈られた年代を指すものであって、それ以前から、渡来人などの間で私的に仏教が受容されていたであろうとは、当然の事実として推測される。

『日本書紀』によれば、仏教の伝来時に贈られた仏像を見て、欽明天皇はこのように美しい(「端厳し」)容貌を見たことはないと言い、この仏教を礼拝すべきかどうかについて、臣下たちに問うと、「大陸の優れた文化であり、西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきである。」と蘇我大臣稲目が賛成したのに対して、物部大連尾輿らは「外国の神を受け入れれば、日本古来の「神」が怒る。」という理由から仏教に反対し、徹底的に排除するべきと主張した。そこで、天皇は「試しに拝んでみるように」と、仏像や教典を蘇我大臣稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し、向原の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった、と書かれている。現在、向原の家は飛鳥の向原寺である。

むくはら

そがのおおおみいなめ

もののべおおむらじおこし

きらぎら

きんめい

しきしま

つちのえうま

がんごうじがらんえんぎ

じょうぐうしょうとくほうおうていせつ

ぬりしちけい

はたきぬがさ

きんめい

せいめいおう

めいふく

みことのり

せいめいおう

きんめい

しゃかにょらいぞう

85

この6世紀中葉には、大陸文化の影響などにより、すでにそのような伝統的な信仰は薄れつつあった。仏教がそれに代わるものとして、はじめから明確な政治的意図に基づいて、受容されたとまでは言えないにしても、このころ以降、前方後円墳の築造は衰退に向かい、それに代わって蘇我氏による飛鳥寺をはじめ、有力な氏族や、さらに政府による寺院の建立が盛んになる点からみれば、尐なくとも結果としては、統一国家を支える政治的宗教とでもいうべきものが、古墳時代初期の原始的な信仰から、新しい仏教へと変化していったことは事実である。これがいわゆる国家仏教?鎮護国家を主眼とする仏教であって、やがて奈良時代にその頂点を迎えることとなる。(可以考虑放在本章节的最后,作为结尾。)

そがうじ

きばん

?蘇我氏と物部氏の崇仏論争 蘇我氏は南大和を基盤とした豪族であったが、大陸や

朝鮮からの渡来人とも深い結びつきをもって発展した。そして、大王(天皇)家とも姻戚関係を結んで勢力を伸ばした。さらに、大陸の優れた文化である仏教を受け入れるべきと主張している新興氏族であった。物部氏は、軍事などを職としていた、そして、日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った伝統的?保守的な氏族であった。

国内で疫病が流行った時、物部尾興は、その原因が仏教を受け入れたせいだと批判した。古来よりの神々を蔑ろにした祟りだと騒がれ始めたため、崇仏を承認していた敏達天皇も物部守屋や中臣勝海の主張を聞き入れて排仏命令を出した。この時を待っていた物部氏は、仏殿や塔に火を放ち焼き払ってしまった。家は焼けても仏像は燃えなかったため、仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだのである。しかし、疫病はなくならず、天災も続いた。さらに、天皇や馬子、守屋までが病気になってしまった。馬子は崇仏の天皇から再び崇仏の許可をもらうとたちどころに病が治ったが、天皇は崩御してしまった。この後の天皇を誰にするかで物部氏と蘇我氏の対立が激化する。蘇我?物部両氏族の対立は激化し、6世紀末に仏教受容について意見の対立、と用明皇死後の皇位継承問題とが絡んで武力抗争にまで発展した。

こうして、飛鳥文化の成立はこのような国際的文化交渉の質的変化を前提とすることは事実である。そうした条件のもとに形成された文化がどのような内容をもっていたか、次の節で述べることにしたい。

から

ほうぎょ

もりや

もりや

かつみないがし

たた

びだつ

もののべのおこし

てっていてき

はいじょ

しんこうしぞく

もののべし

いんせき

2.飛鳥文化の性格

飛鳥文化といえば、大陸文化の摂取という事実を無視できない。そして、6世紀~7世紀の日本の歴史的情勢がそれにどのような歴史的性格を与えたか、また新しい外来の文化と伝統的な文化との間に6世紀~7世紀の文化史の基本的な動きをとらえている必要がある。

?大陸文化の摂取 6世紀の日本に大陸文化をもたらす直接の契機となったのは、朝鮮半

86

島をめぐる国際的情勢であった。百済は中国王朝ほ歓心を求めようとし、高句麗と競争して、南朝の歴代に入貢したのであるが、その結果、南朝の漢文化が陸続として百済に流れ込み、百済は半島における大陸文化の出店のような観を呈するにいたった。

『日本書紀』によると、513年には五経博士段楊爾を貢し、516年には五経博士漢高安茂を送って段に代えたという。その後も、百済は五経博士のほかに、医博士?易博士?暦博士?僧?楽人などを交番に貢上してきた。このようにして、百済を媒介とする南朝の中国文化が続々として6世紀の日本に移植され、飛鳥文化の展開を可能させる前提条件を形成したのである。

百済を経由する大陸文化の輸入が活発となったとき、いち早くこれに反応を示したのは蘇我氏であった。蘇我氏は当時集権政府としての道を辿っていた大和朝廷の最高の官僚としての役割を演じていて、大陸文化に親しんでいた漢直等、帰化人系氏族の関係が深かったところから、大陸文化に対し、比較的理解力を豊かにもつことができたのである。

あやのあたい

ごきょうはかせだんように

かんのこうあんも

?飛鳥文化の特色 飛鳥時代には、仏教が盛んになり、大阪に四天王寺、奈良に法隆寺

や飛鳥寺などの大きな寺院がつくられた。この時代の仏教を中心とする文化を飛鳥文化と呼ばれている。寺院や仏像?工芸品には朝鮮からの渡来人によってつくられたものが多く、また、ギリシャ文化とのつながりを示すものもあって、飛鳥文化が日本国内だけでなく、世界とのつながりをもっていたことがわかる。

飛鳥文化は、蘇我氏など中央の有力豪族層と渡来人による文化の充実の上に生み出された文化であり、蘇我氏が信仰した仏教が朝廷の保護を受け、発展した最初の仏教文化とも言える。朝鮮の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、さらに間接的にではあるが、東ローマ?ギリシア?ササン朝ペルシアなどの文化の影響も受けている国際性豊かな文化でもある。当時、多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期でも言える。

3.寺院と仏像

?寺院の造営 皇位継承闘争に勝利した

蘇我馬子や聖徳太子は、「仏法興隆」をめざし、その後本格的な寺院建設を行っていく。法興寺は明日香村にあり、現在は飛鳥寺(「安居院」)として知られている。法興寺は我が国最初の本格的な伽藍配置の寺院として、蘇我氏によって建立された。また、飛鳥寺は日本で最初の瓦葺き寺院でも

あった。掘っ立て柱の板葺き建物しか見ていない人々にとっては、外国の文化を直接感じ

かわらぶ

ほうこうじ

四天王寺 87

るものであったようだ。瓦の使用の他にも寺院建築には多くの渡来人の技術が使われている。掘っ立て柱式の建築から石の上に柱を立てる礎石を用いた技法もその一つで、それまでの建築方法が一変した。聖徳太子は大阪に四天王寺、奈良斑鳩に法隆寺を建立した。 *四天王寺 四天王寺は、593(推古天皇元)年、今から1400年以上も前に建立された寺院で、大阪市天王寺区、大阪市天王寺区にある。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。山号は荒陵山、本尊は救世観音である。「金光明四天王大護国寺」ともいう。

『日本書紀』によれば、593年(推古天皇元年)に造立が開始されている。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。四天王寺式伽藍配置は、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つで、その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な存在とされている。

*中宮寺中宮寺は、聖徳太子創建七ヵ寺の一つで、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺に隣接する、聖徳太子の母穴穂部間人皇后の御所を寺としたものと伝えられる。本尊の弥勒菩薩半跏思惟像は国宝で、格調高く、優しさにあふれている。

*法起寺三重塔 斑鳩の里に立つ均整のと 法隆寺夢殿から歩いてすぐに中宮寺はある

あなほべのはしひとこうごう

ちゅうぐうじ

あらはかさん

ぐぜかんのん

こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら

してんのうじ

れた三重塔、千三百年の世の変遷を見守ってき

ほうきじ

法起寺

の貴重な遺構である。それは聖徳太子の岡本宮があった所、太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮を改めて寺とすることを遺命、606(推古14)年、寺に改められた。近くにある法隆寺、中宮寺とともに、聖徳太子建立七ヵ寺の一つで、現在は聖得宗の本山である。日本最古の三重塔で、国宝、世界文化遺産にも指定されている。

*飛鳥寺 飛鳥寺は蘇我氏建立した寺で、596(推古

4)年に蘇我馬子の発願により建てられた、日本で最初の本格的な寺院。三金堂一塔式という、塔の東

三重塔(国宝)奈良県生駒郡斑鳩町岡本1873 と西、北に金堂を置く類例のない伽藍様式であったが焼失。建立にあたっては、百済の専

88


05章-飞鸟文化 - 图文.doc 将本文的Word文档下载到电脑 下载失败或者文档不完整,请联系客服人员解决!

下一篇:冀教版小学三上信息技术全册教案

相关阅读
本类排行
× 注册会员免费下载(下载后可以自由复制和排版)

马上注册会员

注:下载文档有可能“只有目录或者内容不全”等情况,请下载之前注意辨别,如果您已付费且无法下载或内容有问题,请联系我们协助你处理。
微信: QQ: