5 白鳳文化
要点: 飛島文化に続く7世紀後半から8世紀初頭の文化、天武?持統天皇時代中心の文化―白鳳文化 a. 文化の特色 ①律立国家の形成期にふさわしい清新な気風にみちた文化 ②初唐文化の影響を受け、仏教興隆策による仏教文化 b. 仏教の国家保護 官大寺制―官立の大寺院 大官大寺―(大安寺)?薬師寺?元興寺などの建立、地方寺院の建立 c.建築 薬師寺―天武天皇の創建、東塔は現存 d.彫 刻 ①薬師寺金堂薬師三尊像―中央に薬師如来、左右に日光?月光の脇侍 ②薬師寺東院堂聖観音像―白鳳期の仏像の様式を示す ③興福寺―旧山田寺薬師三尊像の本尊の頭部 ④法隆寺阿弥陀三尊像?夢違観音像 e.絵画?工芸 ①法隆寺金堂の壁画―1949年焼損、インドや西域の影響を受ける ②高松塚古墳の壁画―1972年発見、高句麗の影響が認められる ③水煙―薬師寺東塔の頂上にあり、天女と飛雲を配している f.文 学―宮廷儀式の発達にともない、歌手輩出 ①漢詩―大友皇子?大津皇子ら のち『懐風藻』に収録 のち『万葉集』に収録 かいふうそうかきのもとまろすいえんやくしじひがしとうてんにょひうんはいこんりゅうじとう②和歌―女性歌手額田王?柿本麻呂?持統天皇ら
?白鳳文化の特性
飛島文化に続く7世紀後半から、8世紀初頭、すなわち、天武?持統天皇の時代を中心 とした文化を白鳳文化という。
この時代は、古代国家が確立する時期に当たり、中央貴族のあいだでは緊張した清新な空気が流れる。対外には、遣唐使による初唐文化の影響を受けて、いまだ未完成であるとはいえ、創造力?生命力の充実した文化であった。やがて、これが円熟し、天平文化が形成されるのである。 ?国家仏教の端緒
この時代には、道教の受容も進んだが、仏教は貴族?豪族層により広まり、各地に寺院が建立された。それが、仏像など造形文化に一つの特色をもたらした。 官大寺制―官立の大寺院
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ぶつぞう
ぞうけい
きぞく
ごうぞくそう
えんじゅく
てんぴょうぶんか
けんとうし
はくほう
しょとう
てんむ
じとう
―(大安寺)?(2)?元興寺などの建立、地方寺院の建立
584年9月,百済から鹿深臣が弥勒菩薩(みろくぼさつ)石像一体と佐伯連が仏像一体を持ってもどってきた。蘇我馬子は全国に修行者を探させたところ,播磨にいた恵便(えべん)という高麗からの渡来人がいることがわかった。そこで恵便を仏教の師とし,さらに3人の娘を出家させて尼(あま)とした。また,自分の家の東に仏殿を建立し,弥勒菩薩の石造を安置した。また,馬子は石川の自宅-石川精舎(しょうじゃ)にも仏殿を建てて仏像を収めた。585年2月には,大野の丘に塔を建てた。
?建 築
仏教の発展にともなって、都をはじめ各地にも豪族によって、寺院が造られた。 ―― 都の近辺には、弘福寺?薬師寺?大官大寺?山田寺などがあり、 地方では、観世音寺?崇福寺などが天智朝に造営された。 中でも、この時代の建築様式を示す代表は、薬師寺東塔である。 ?彫 刻
前半は、飛島時代の様式が継続され、後半には、唐の影響があらわれる。 ――薬師寺の聖観音像(東院堂)?薬師三尊像(金堂)は、最高傑作である。 ほかには、興福寺仏頭?法隆寺阿弥陀三尊像?夢違観音像がある。
こうした仏像とともに、30cm前後の小金銅仏が多数作られたことも注目される。
?絵画?工芸
絵画を代表するものは、法隆寺金堂壁画で、1949年に焼失してしまったが、この技法はインド?グプタ時代のアジャンタの壁画に源流をもち、大陸から渡来したものといわれ、大陸文化流入の一例である。
高松塚古墳壁画は、極彩色で写実的な男女の人物像や玄武などの四神が描かれており、朝鮮半島との文化が推測される。
欽明(きんめい)天皇は仏教を礼拝すべきかを臣下たちに問うと,大陸の優れた文化であり,西方の国々が礼拝している仏教を受け入れるべきであると蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)が答えたのに対して,物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ:天智天皇時代の中臣鎌子?鎌足とは別人でつながりのない人物)らは外国の神を受け入れれば,日本古来の「神(国つ神)」が怒るという理由から,仏教に反対し,徹底的に排除するべきと言った。そこで天皇は試しに拝んでみるようにと,これらを蘇我大臣稲目に授けた。稲目は小墾田の自宅に安置し,向原(むくはら)の家を浄めて寺とした。この時より向原の家は日本最初の寺となった。
国内で疫病が流行った時,尾輿はその原因が仏教のせいだと批判した。そのため,570
すいそく
りゅうにゅう
しょうしつ
しょうかんのん
ぐふく
しょうじゃ
めぐみびん
かふかのおみ
みろくぼさつ
さえきれん
こんりゅう
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年に稲目が死去すると,天皇の許可を得て稲目の寺を焼き払った。家は焼けても仏像は燃えなかったため,仕方なくこれを難波の堀江に投げ込んだ。しかし,疫病はなくならず天災も続いた。
後に推古天皇はここ向原の地を宮とした。小墾田の宮に移った後は豊浦寺(とゆらじ)となった。 ?和歌?漢文学
この頃になると、それまで一句の音数の定まらない自由な形式であった歌謡も、しだいに五七調の定形にととのいはじめて、和歌の完成となり、初期万葉の文学を生んだ。 第1期(舒明から天智にいたる)――天智天皇?額田王?有間皇子など皇室歌人が有
名である。
第2期(壬申の乱から平城遷都にいたる)――天武?持統天皇とともに、宮廷詩人柿本
人麻呂が出て、比類のない皇室賛歌を作り上げた。
ひとま
ろ
かきのもと
ぬかたのおおきみ
持統天皇
舒明天皇の歌
その歌は、人間の真情を格調高く歌いあげたが、しかし、その基調が天皇への賛歌として成立したことは、この時代のあり方をもっとも端的に示している。
初唐の文化の移入とともに漢詩も流行し、奈良時代に編纂された『懐風藻』には、この時代の詩人16人、28篇の漢詩が収録されている。
その多くは、模倣の域を出ていないが、中には、大友皇子?大津皇子のように、隋唐の作品以上といわれるほどの才能を示したものもある。
かいふうそう
さんか
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?暦の伝来
?観勒 観勒は百済の僧侶で、日本へ602年に来航する。天文、暦本、陰陽道を伝える。
暦本は604年に聖徳太子によって採用された。後に日本で最初の僧正に任命された。
そうじょう
かんろく
?暦の伝来 中国の暦が日本に伝えられたのがいつであるか定かではないが、『日本
書紀』には553(欽明天皇14)年に百済に対し暦博士の来朝を要請し、翌年2月に来たとの記事があり、遅くとも6世紀には伝来していたと考えられる。この頃の百済で施行されていた暦法は元嘉暦であるので、この時、伝来した暦も元嘉暦ではないかと推測される。また、602(推古天皇10)年に百済から学僧観勒が暦本や天文地理書などを携えて来日し、幾人かの子弟らがこの観勒について勉強したとある。 官暦として正式に採用されたのがいつからであるかについては諸説ある。平安時代に編集された『政事要略』という本には604(推古天皇12)年から、初めて暦の頒布を行ったと書かれているが、『日本書紀』では690(持統天皇4)年の条にある「勅を奉りて始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」という記事がはじめてであり、正式採用は692(持統天皇6)からという説がある。
ぎほうれき
げんかれき
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