05章-飞鸟文化 - 图文(2)

2019-04-09 14:06

門家が招かれたという史実からも、当時の朝鮮との深いつながりがうかがえる。本尊は、鞍作止利によって造られたと伝わる重要文化財の釈迦如来坐像(飛鳥大仏)。東大寺の大仏

よりも、さらに150年も古いと推定されている。現存するのは、小さな堂宇とその中に残る日

飛鳥寺 くらつくりのとり

本最古の仏像のみ。飛鳥寺

は、平城遷都で奈良に移り、元興寺と名を改めたが、ここも本元興寺として存続した。寺の庭は、大化改新を巻き起こした、中大兄皇子と中臣鎌足との歴史的な出会いの場として伝えられている。

*法隆寺 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られている。その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができる。それによると、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されたが、その実現をみないままに崩御されたという。そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、607(推古15)年に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれている)であると伝えている。このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めている。

ほうりゅうじ

飛鳥文化-代表的な寺院

西院伽藍遠景

金 堂

夢 殿

法隆寺五重塔

89

4.仏像と彫刻

?仏像?伽藍 6世紀前半以来、蘇我氏がその私宅に施設を設けて仏教を信仰していたら

しいことは、すでに豪族の寺院造営の萌芽とみられるものであり、577(敏達6)年には難波に大別王の寺なるものが存在したのであって、寺院の起源は飛鳥前代であろう。具体的にその規模と遺物との確認されるのは、推古朝の初頭に完成した飛鳥寺をもって最初とすべきである。その本尊である鞍部止利の釈迦金堂像は、原形を著しく損ないながらも現存しており、また近年の発掘により、創建当初の飛鳥寺が塔を中心に金堂?東西金堂の鼎立する伽藍配置をもつものであることが明らかとなったのであって、飛鳥時代の第一声とでもいうべき仏教文化の具体相をかなりの程度まで知ることができるのである。しかし、飛鳥寺よりもさらに多くの飛鳥文化の遺物を保存している点で、法隆寺がいっそう重要な意味をもつことは、改めていうまでもない。もっとも、現在の法隆寺金堂?塔?中門等の主要伽藍は670(天智9)年に火災にかかったのちの再建の建物であって、聖徳太子の建立した最初の寺院は、いま若草伽藍址と呼ばれている遺跡の地に存在したのである。 *中宮寺半跏思惟像 この像は、寺伝では、如意輪観音とよばれているが、如意輪観音像が信仰されるようになったのは、平安時代からのことなので、あるいは弥勒として造られたものではないかと考えられている。寺伝では、如意輪観音が左足を垂れ、右手指は頬に触れんばかり。半跏思惟の姿は高貴な気品にあふれ、世界三微笑の一つと称えられるアルカイックスマイル。飛鳥時代の特色を持っているところから、当代彫刻の一つに数えられている。

*飛島寺丈六釈迦如来像 銅造釈迦如来坐像(国の重要文化財)-飛鳥寺(安居院)の本尊。飛鳥大仏の通称で知られる。

7世紀初頭、鞍作鳥の作とされる。鞍作鳥は、飛鳥時代に活躍した帰化人系の仏師で、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像(623年)が代表作とされる。

*法隆寺百済観音像 百済観音像は、百済観音の名で広く親しまれている法隆寺宝蔵殿の国宝で、観音菩薩立像は明治になるまでは虚空蔵菩薩として祀られていた。像の高さ2.09m、八頭身の長身で、樟の一本造りで両腕の肘からさきと水瓶 、天衣など別材を継いで造っている。本来、百済観音は、虚空像菩薩として伝わっていた。虚空とは、宇宙を意味し虚空菩薩は宇宙を蔵にするほど富をもたらす仏様ということなのである。その宇宙の姿を人の形に表したのが百済観音だというわけである。作風からみて百済の仏像とはいえず、また朝鮮半島では仏像の用材に用いられていない楠の木でできていることから、日本で造られた像であると見られている。

90

こくうぞうぼさつ

くだらかんのん

くらつくりのとり

わかくさがらん

がらんはいち

ほんぞん

しゃかこんどうぞう

おおまたのみこ

なにわ

本尊の弥勒菩薩半跏思惟像 *法隆寺金堂釈迦三尊像 法隆寺金堂内陣中央に安置されている釈迦三尊像は、飛鳥時代623年に、聖徳太子の冥福を祈って、止利仏師に造らせた仏像である。釈迦如来を中尊として、脇侍は寺伝では薬王菩薩?薬上菩薩と称している。釈迦三尊像が杏仁形の眼や仰月形の唇、アルカイックスマイルと呼ばれる微笑しているような表情は中国北魏様式の影響をうけるが、はるか古代ギリシャ彫刻をも思わせる。

*法隆寺夢殿救世観音像 国宝観音菩薩立像(救世観音)は、739年(天平11)僧行信が斑鳩宮の旧跡に東院を創建したときに,八角仏殿(夢殿)の本尊として安置したものと考えられる。像高は179.9cm、楠木の一木造りで胡粉地に金箔を押し、各所に彩色も施され、頭に山形の宝冠を戴き、あるかなきかの微笑をたたえ、胸もとに宝珠を乗せた蓮華をもち、天衣は両肩から垂直に垂れながら鰭状に張り出し足もとに近く左右に広がっている。長い間秘仏として公開されなかったため保存状態は極めてよく、いまなお金色燦然と、当初の漆箔が輝いている。独特の体躯の造形を有し、杏仁形の目や古式な微笑みをたたえる表情は神秘的で、手にはすべての願いがかなうという宝珠を持っている。

この観音像の造像様式の系統については、北魏様式とするもの、北魏から東魏にかけての竜門後期様式に近いとするもの等諸説あり枚挙に暇がない。また制作時期については、聖徳太子在世中とする説?太子薨後まもなくとする説?白鳳時代とする説などがある。 *広隆寺半跏思惟像 弥勒菩薩は、やがて仏となり、未来の世に現れ衆生を導き救うとされ、未来仏として信仰されている菩薩様である。日本の代表的な仏像の中に、国宝第一号にも指定され、広く日本国民的支持を受けた、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」がある。このすばらしい半跏思惟像は、右手の薬指を頬にあてて物思いにふける姿で知られる。大陸より6世紀から7世紀の弥勒信仰の流入と共に伝えられ、国内には飛鳥、奈良時代の作品が多く残されている。

飛鳥文化-代表的な仏像

はんかしゆいぞう

みろくぼさつ

くすのき

ごふんち

わきじ

ぎょうにんけいしゃかにょらい

菩薩半跏像(部分) 飛鳥時代?7世紀 奈良?中宮寺蔵

法隆寺百済観音像

法隆寺金堂釈迦三尊像

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飛島寺丈六釈迦如来像

法隆寺夢殿救世観音像

弥勒菩薩(京都広隆寺)

5.絵画と工芸

?紙漉きの伝来 五経博士が百済より渡来し、「漢字」「仏教」が普及しはじめ、写経

が仏教普及の大きな役割をはたしていたことからこの頃すでに紙漉がいたのではないかと推測される。『日本書紀』の記述によれば、610(飛鳥時代の推古天皇18)年に、高句麗の僧侶曇徴によって紙漉きと墨の製法と、紙の原料となる麻クズの繊維を細かく砕く(繊維の叩解)ための石臼が伝えられたことが記録されている。年代のわかるものとして現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃、筑前、豊前の戸籍用紙である。また、最古の写経である西本願寺蔵の「諸仏要集教」は、立派な写経料紙に書かれており、296(西晋元康6)年3月18日の銘記がある。この伝来によって、法隆寺玉虫厨子の扉や台座に描かれた須弥座絵(捨身飼虎図)など絵画が発展した。

しゅみ

しゃしんし

どんちょう

いしうす

?絵画?工芸 中宮寺の天寿国繍帳、獅子狩り文様錦や玉虫厨子がある。妃の橘大郎女

が宮中の采女たちと一緒に刺繍した国宝天寿国繍帳は、太子が往生している天寿国という理想浄土の有様を縫いとったものである。その中には、忍冬唐草文様など、ギリシアやササン朝ペルシアの文化の流れを引いたものもある。

*天寿国繍帳 飛鳥時代の刺繍工芸品で、現存するものでは日本最古のものである。鎌倉中期に尼の信如によって発見されて以来、奈良の中宮寺につたわる。もともとは大きな薄い絹地に刺繍され、2帳にわかれて壁面などを飾っていたらしい。しかし、破損や紛失があり、鎌倉時代に補修をうけ、現在は縦88.8cm、横82.7cmに縫い合わされている。全面に仏像、神将、僧侶、庶民の姿がみえ、鳳凰、兎、飛雲、唐草などの文様を散りばめた壭麗なものである。繍帳の作成事情と経緯については、帳内に400字の銘文があ

藤田美術館所蔵の古裂帳に貼られる じょうぐうしょうとくほうおうていせつ

からくさ

ほうおう

はそん

ふんしつ

きぬち

にんどうからくさもんよう

てんじゅこくしゅうちょうたまむしのずし

る。これを収録した『上宮聖徳法王帝説』によると、622 (推古30) 年2月に聖徳太子が没し、それをいたんだ王妃

たちばなのおおいらつめ

橘大郎女が、往生して天寿国にあそぶ太子の姿をみたいと願ったという。

92

*玉虫厨子 法隆寺につたわる厨子。厨子とは、仏像?舎利などを安置する仏具をいう。玉虫厨子は宮殿形の厨子本体とこれをのせる須弥座と台脚部からなり、宮殿部からは飛鳥時代の建築様式を知ることができる。全体に黒漆をぬり、金銅透彫金具をかぶせているが、金具の下にタマムシの翅をしきつめていたところから玉虫厨子とよばれている。厨子に納められていた本尊は失われてしまったが、宮殿部の扉および背面にえがかれた天部像、菩薩像、霊鷲山説法図、須弥座の腰板に絵がかれた仏

玉虫厨子須弥座正面供養図(法隆寺蔵) ぼさつ

りょうじゅせん

くろうるし

きんどうとおるちょうかなぐ

しゅみざ

舎利供養図、須弥山図はよくのこっ

ている。とくに、須弥座右側面の「捨身飼虎図」と左側面の「施身聞偈図」は、釈迦の前世の物語を描いた日本最古の仏教説話画である。これらの絵は、朱、青緑、黄の絵具をもちいているが、漆絵と油を媒介とした密陀絵を併用していることがわかっている。

うるしえ

みつだえしゃしんしこ

せしんもんげ

第2節 聖徳太子と太子信仰

要点: a.聖徳太子の新政 ①物部守屋と蘇我馬子の抗争→物部氏の滅亡(587) ②蘇我馬子朝の崇峻天皇の対立→天皇暗殺(592)推古天皇即位 b.聖徳太子の摂政 もんばつだはじんざいようさく①「冠位十二階」の制定(603)―門閥打破、人材要策、個人にあたえられ―代限り ②「憲法十七条」の制定(604)―官吏への政治的?道徳的訓戒、天皇中心の中央集権国家体制樹立の構想、仏教?儒教?法家思想の影響 c.太子の政治理念 ①仏教の奨励 ②四天王寺?『三経義疏』 ③国史の編纂 d.遣隋使の派遣(607年~618年) ①情勢:煬帝即位、新羅の発展 ②目的:新羅征討のため?積極的な国交?外交的威圧、 ③回数及び時間: ? ④重要な人物:小野妹子、裴世清

1.聖徳太子の新政(積極的な中央集権化)

仏教を国家として受容するのは、単に宗教上の問題にとどまらない。仏教はそもそも、インドのカースト制度や部族制度を超越した普遍的な教義がその中心をなしている。だから、仏教を受け入れるということは、氏姓制度に立脚した豪族連合政権である大和朝廷を、中央集権的律令国家へと変革するという意味あいをもっていた。

りっきゃく

93


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