05章-飞鸟文化 - 图文(4)

2019-04-09 14:06

3 律令国家の成立

要点: a. 大化改新の原因 ①大陸情勢の変化:唐―高句麗遠征、 新羅―強大化、 朝鮮半島の統一をめざす ②氏姓制度の弊害―豪族の強大化―土地人民の兼併、職務の世襲 ③皇室権威の危機―蘇我蝦夷?蘇我入鹿父子、政治を専制 ④留学生の帰国―旻(632)?高向玄理婿南淵請安(640) b. 改新の断行 ①中大兄皇子?中臣鎌足ら、蘇我入鹿を暗殺、蝦夷自殺―乙已の変645年6月 ②中大兄皇子は孝徳天皇の皇太子となる、内臣―中臣鎌足、左大臣―阿倍内麻呂、右大臣―蘇我倉山田石川麻呂、国博士―高向玄理?旻 ③年号を大化とする(645.6) ④都を飛島から難波に移す(645.12) c.「改新の詔」(646.1)―新政府の政治方針を示す ①豪族の田荘?部曲を廃止して公土公民制への移行をめざす ②全国的な人民?田地の調査、統一税制の施行をめざす ③中央官制の整備、地方行政組織「評」の設置 せいびこほりぜいせいしこうたそうぶきょくくらやまだいしかわまろうちつおみあべないまろいっしたかむこのげんりみなぶちのしょうあんえみしそががのいるかへいがいけんぺいせしゅう山背大兄王を自殺させる(643)

● 大化改新 ?蘇我政治の専制

622年に、聖徳太子、626年に蘇我馬子、ついで628年に推古天皇が死ぬと―― 大臣となった蘇我蝦夷は、自分の推す舒明天皇を強引に即位させ、舒明天皇の死後、その皇后が即位して、皇極天皇となったが、この時代に蝦夷?入鹿(鞍作)は、いっそう勢力を伸ばした。

皇極天皇の時代,蘇我蝦夷,蘇我入鹿父子が朝廷での実権を握った。蝦夷は遣唐使を何度も派遣し,海外の文化を積極的に導入しようとした。

大陸から遣唐使として唐で学び帰国した者たちの中には私塾を開く者もいて,そこに豪族たちの子弟が通って大陸の文化や知識を学んだ。入鹿はそこで学ぶ1人で,同塾生として中臣鎌足がいた。

643年,入鹿は「大臣(おおおみ)――紫の最高位」となり,外交?財政を一手に担うことになる。

東アジアの情勢を知った入鹿は,これまでの日本と百済との関係を見直し,新羅や高句麗とも同じように国交を結ぶ政策(等距離外交)へと転換する。さらに,この政策に反対した聖徳太子の子で次期天皇候補の山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を襲撃し

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しゅうげき

とうきょり

なかとみのかまたり

しじゅく

ひら

えみし

いるか

こうごう

こうぎょく

えみし

いるか

じょめい

殺した。これにより,聖徳太子一族が滅び,蘇我氏の権力はさらに強大なものとなった。 ?山背大兄王事件

入鹿は、643年、聖徳太子の子で皇位継承の有力候補であった山背大兄王を襲い、上宮王家一族(聖徳太子の一族)を滅亡した。

この事件は、朝廷内部に燻っていた反蘇我氏の気運を一挙に強めた。しかも、当時は、各氏族の支配基盤では、有力農民が成長する反面で没落農民がふえ、これが相次ぐ飢饉とともに社会不安を激化させたので、朝廷の内紛はいっそう深刻となった。 ?新政への準備

中国に派遣されていた僧高向玄理らが帰国した。(640年)彼らは、中国で、約200年にわたる南北朝の対立を統一した隋、さらに高度に中央集権化した唐の国家支配体制の知識を学んできた。

また、唐の律立制を取り入れて国家体制を充実させた新羅の強大化は、日本にとって大きな脅威となり、それに対応するためにも、中央集権的国家体制の形成が考え られるようになってきた。

ようやく、蘇我氏打倒とその後に樹立されるべき国家体制が構想されはじめ、その中心をなしたのが舒明天皇の子中大兄皇子と中臣鎌足であった。 ?蘇我氏の滅亡

中大兄皇子?中臣鎌足は、高向玄理らから大陸の新しい知識を学び、いっぽうで反蘇我勢力を集結していった。645年6月12日、皇子らは大極殿で入鹿を暗殺し、蝦夷も屋敶に火を放って自殺し、ここに蘇我本宗家は滅亡した。(乙已の変)。

いっし

やましろのおおえのおうおそじょう

ぐうおうけ

くすぶ

ぼつらく

たかむこのくろまろ

ちゅうおうしゅうけんかとう

とうりつりつせい

きょういたいおう

そがうじだとうごじゅりつ

なかのおおえおおうじなかととみもかまたり

たかむこのくろまろ

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4 律令国家への道

要点: a. 斉明天皇の政治(皇極天皇の重祚) ①有間皇子の反乱(658)―蘇我赤兄が皇子に反乱をすすめ、裏切る ②百済援助のため斉明天皇みずから出兵したが、九州朝倉宮で死去(661)―百済滅亡 b. 天智天皇の政治(皇太子のまま称制、のち即位668~671) ①外 交 白村江の戦い(663)―唐?新羅連合軍に大敗、朝鮮半島での地盤を失う百済からの亡命貴族を中心に大宰府に水城や大野城を築くなど、対馬から大和にかけて朝鮮式山城を造営―対外防備の強化 高句麗の滅亡(668) ②内政の整備 近江大津宮遷都(667) 近江令制定(668?)―令22巻、 中臣鎌足ら作成 こうねんじゃくだざいふみずきじばんぼうめいめつぼうありまおうじあかえちょうそ新羅の朝鮮半島統一(676) 庚午年籍(670)―初の全国的戸籍、氏姓を正す根本台帳として永久保存 c.壬申の乱672年 ①原因―皇位継承問題、朝廷をとりまく豪族の対立 大友皇子(天智天皇の子)―近江朝廷 おおあまのみこじんしん大海人皇子(天智天皇の弟)―吉野方、大和地方の豪族の支持 ②結果―吉野の勝利 おおあまのみこ大海人皇子が飛島浄御原宮で即位―天武天皇となる あらひとがみあすかきよみはらd.天武天皇の政治(673~686) ①天皇の称号使用、権威高揚(神格化) てんじやくさ現人神思想の成立 ②天智朝で復活した部曲の廃止(675)―公土公民制の徹底など律立国家建設を推進 ③八色の姓制定(684) へんさんかばね身分秩序の再編成 まひとあさみすくねいみきみちのしいなぎ―真人?朝臣?宿禰?忌寸?道師?臣?連?稲置 ④国史の編纂(未完成) ひえだのあれ稗田阿礼に「帝紀」「旧辞」を詠み習わす こういんねんじゃく『古事記』の成立(712) e.持統天皇=天部天皇皇后の政治(686~697) ①飛島浄御原令の施行(689)―庚寅年籍(690)作成、6年ごとに戸籍作成 ②藤原京の造営(691~694)―唐の都城制を模した最初の宮都

?改新政治の矛盾

改新政治が進められていく間、政界ではいくつかの事件が起こった。 1)蘇我倉山田石川麻呂事件(649年) 2)天皇と皇太子の対立(653年)

3)有間皇子の反乱(658年)―蘇我赤兄が皇子に反乱をすすめ、殺された。

?白村江の敗戦

百済援助のため、661年、斉明天皇みずから出兵したが、九州朝倉宮で急死し、中大兄

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ありまおうじ

あかえ

やまだいしかわまろ

皇子が皇太子のままで軍政を行った。662年には、援軍と莫大な軍需品を朝鮮半島に送ったが、翌663年には、日本軍は、白村江で唐?新羅連合水軍に敗北し、百済の復興は失敗に終わった。

こののち、高句麗の滅亡し(668)、さらには唐の干渉をも排して、新羅の朝鮮半島を統一した(676年)。

?天智天皇の政治

(皇太子のまま称制、のち即位668~671) 近江遷都の翌668年、斉明天皇の死後も

6年間、皇太子にとどまって、称制を行っていた中大兄皇子即位した。天智天皇である。

?壬申の乱―皇位継承問題、朝廷をとりまく豪族の対立 要因――この乱については、古くから諸説がある。 1)大海人皇子が改新政治の保守的修正をめざしたもの。 2)改新政治が保守したのを大化の理想に復興したもの。 3)近江方の旧門閥頭政治に対する下級官僚層の勝利したもの

4)中央集権的な国家体制の成立にともない、徭役労働を中心とする負担が重くなり―

―それが乱の基本的な要因だとする見解がある。

結果―吉野に入った大海人皇子が勝利し、飛島浄御原宮で即位し、天武天皇となった。

?大海人皇子

おおあまの

あすかきよみはら

じんしん

めつぼう

えんぐんばくだいぐんじゅひん

なりあきてんのうしご

しょせつ

おおあまのまの

ふっこう

おうみがたきゅうもんばつあたませいじたいかきゅうかんりょうそう

ようえき

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?天武天皇の政治(673~686)

天武天皇在位中は、大臣が置かれず、強力な天皇専制支配体制が確立され、天皇の称号使用し、天皇の神格化もはじまった。

大化改新期の女帝、皇極?斉明天皇(在位 642-645,655-661)について見ていきます。 第41代持統天皇(称制 686-689,在位 689-697)と第43代元明天皇(称制 707,在位 707-715)は、第38代天智天皇の皇女であるから、「男系女子」による継承と言う事になる。持統天皇は天智天皇の「弟」である第40代天武天皇(「天武天皇」については、史書の記述の矛盾から、天智天皇の弟では無かったと考える。

?大化の新政府

皇極天皇は、孝徳天皇に譲位し、新政府の人事が定まった:

皇太子――中大兄皇子 左大臣―阿倍内麻呂 右大臣―蘇我倉山田石川麻呂 内臣―中臣鎌足 国博士―高向玄理?旻 という陣容である。

元号――大化と定められた。(645.6) 都――飛島から難波に移した。(645.12) ?改新の詔

翌年646年正月、天皇は難波宮において、4条からなる「改新の詔」をだし、新政府の改革の根本方針を示した。その内容は、次のとおりである。

(1) 公土公民制――豪族の田荘?部曲を廃止して、土地と人民を国家の直接支配とし

た。

(2) 地方行政組織――中央官制の整備、地方行政組織「評」の設置した。 (3) 班田収授の法――戸籍?計帳を作り、班田収授法を定めた。 (4) 税制度――全国的な人民?田地の調査、統一税制の施行をめざす

?改新の詔の意義

この詔は、のちの令文との類似点が多く、これらが実行されるのは、7世紀後半期で、当時実行されたものではない。実際にだされたとしても方針にすぎない。

れいぶん

るいじてん

ぜいせい

しこう

せいび

こほり

たそう

ぶきょく

くらやまだいしかわま

うちつおみ

べないま

てんむ

じとうげんめい

てんむ

じんよう

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