第六章 異国風な文化ーー奈良文化 第1節 平城京の時代
(710~784)
● 平城京と地方社会
要点: a.平城京遷都―710年、元明天皇が奈良に造営 ①都城建設の目的―中央集権国家の威容を誇示 ②平城京の規模―唐の都長安の都城制と模倣、北部中央の宮城―内裏?大極殿?朝堂院など、 都は朱雀大路で左京?右京に区分、貴族?官吏の邸宅?諸寺を移建(大安寺?薬師寺?元興寺など) ③奈良時代―710年~794年、8代80余年 b.流通と生産の促進 ①都には東西市をおき、市司が監督 ②武蔵国より銅献上(708) 和銅と改元 いちのつかさすざく
8世紀初頭の大宝律令の制定によって、律令国家が確立してくると、それにふさわしい都城の造営が
考えられるようになってきた。元明天皇は即位するとすぐに、藤原京の北方に平城京を造営し、710年 ここに遷都した。国家的整備にともなう需要の増大によって、7世紀末ごろから、金銀銅鉄をはじめと する鉱物物質がさかんに発見されるようになった。この時期には国内資源に開発がすすめられたり、手 工業技術の普及がはかられた。
政府は、経済の発展を促進するため貨幣の流通をはかったが、そのほか京内の南部に官設の東市?西 市を設けた。そこでは、市司の管理によって、正午から日没前までのあいだ、政府の支払い下げ品や 農業生産物?地方物産が売買された。
いちのつかさ
?奈良時代
奈良時代(710年-794年)は、710年(和銅3)に元明天皇が平城京に都を移してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの84年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。奈良の地に都(平城京)が置かれたことから奈良時代という。 この遷都には藤原不比等が重要な役割を果たしたと考えられている。中国の都長安を模した都を造営し、役人が住民の大半を占める政治都市であった。
ぞうえい
やくにん
じゅうみん
へいじょうきょうわどう
108
前時代に撰定?施行された飛鳥浄御原令や大宝律令が、日本国内の实情に合うように多方面から検討し変更されるなど、試行錯誤しながら、律令国家?天皇中心の専制国家?中央集権国家を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。 ?平城京の繁栄
平城京(へいぜいきょう、へいじょうきょう)は、かつての日本の首都。いわゆる「奈良の都」である。唐の都「長安」をモデルにつくられた。現在の奈良県奈良市および大和郡山市あたりにかけて建設された。710(なんと)見事な平城京の語呂合せで知られる。 8世紀初頭の大宝律令の制定によって、律令国家が確立してくると、それにふさわしい都城の造営が考えられるようになってきた。
平城京は、交通の便がよく、風水思想にもかなっていた。
平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路(すじゃくおおうじ)を軸として右京と左
きょう
うきょう
さ
そときょう
とうざいじく
いちじょう
くじょう
ふうすいしそう
ぞうえい
たいほうりつりょう
ご
ろあわ
しこうさくご
りつりょう
京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京が設けられている。東西軸には一条から九条
いちぼう
しぼう
おおじ
大路、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制(じょうぼうせい)の都市計画である。
?平城京の建築物
平城京 朱雀門(復元)
平城宮(大内裏)は朱雀大路の北
たん
ほく
端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ
位置に存在した。その中心建物である大極殿は740年の遷都の際に取り壊され、後に旧位置の東側に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、实際には羅城は羅城門に接続するごく一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
?平城京都の様子
平城京は、唐の都長安(今の西安)にならってつくられ,東西約4.2km,南北約4.7kmの規模で,東西?南北に規則正しくならべた道路で,ご盤の目のようにくぎられた。皇居や政府の役所などがある大内裏(だいだいり)をはじめ,貴族や役人の住まい,大寺院などがたちならび,庶民の住むかやぶきの家や,田や畑も広がっていた。都の東西に市があり,さまざまな品物が取り引きされ,和同開珎などの通貨も使われた。人口は約10万
しなもの
つうか
だいじいん
とう
みやこ
せつぞく
らじょうもん
そんざい
せんと
さい
と
こわ
109
人で,その中で高級貴族は約100人,中級役人は600人程度だった。
◇役所?貴族のやしき?寺院などの建物は朱の柱?白壁,かわら屋根からなり
あおに
しゅ
はしら
しらかべ
や
ね
青丹によし寧楽(奈良)の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
――華やかな都を象徴する歌である。(小野老『万葉集』より)
?経済の発展
奈良時代は,経済?外交が大きく発展した時代である。 【鉱物資源の発見】
国家的整備にともなう需要の増大によって、7世紀末頃から、金銀銅鉄をはじめとする鉱物資源がさかんに発見されるようになった。
■記録によると、この時代にさまざまな鉱物資源(こうぶつしげん)対馬の銀,武蔵の銅,周防の銅,陸奥の金などが発見されています。 ●668年:石油…越後(えちご=現在の新潟県) ●674年:銀…対馬(つしま) ●701年:金…対馬
●708年:銅…武蔵(むさし=現在の東京都?埼玉県?神奈川県の一部) ●749年:金…陸奥(むつ=現在の岩手県?宮城県)
【和同開珎の鋳造】(708年)……銀銭?銅銭の鋳造
むさしのくに
みちのくむさし
さいたまけん
かながわ
けん
えちご
みちのく
つしま
せいび
きんぎんどうてつ
おののおゆ
武蔵国(むさしのくに)で発見された自然銅が朝廷に献上(けんじょう)されたことをきっかけに、708年、和同開珎(わどうかいちん)とよばれる貨幣(かへい)の鋳造(ちゅうぞう)が行われました。記録によると、銅銭と銀銭の二種類があったようなのですが、銀銭の方は、翌年(よくねん)には廃止されたということです。このあと、958年につくられた乾元大宝まで、12種類の銅銭がつくられました。これを皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)といいます。
けんげんたいほう
どうせん
ぎんぜに
110
【農業の発達】
? 鉄製農具の普及。稲作は,直播法から田植法に,稲刈りは,穂首刈りから根刈りに
変化。 【手工業の発達】
? 養蚕や絹織物の技術が普及。 【蓄銭叙位令】
■当時の商業はふつう、稲や布などの物々交換が中心でした。ですので、せっかくつくられた貨幣(かへい)でしたが、流通したのは京?畿内にほぼ限られていたようです。国は
ちくせんじょいれい
ぶつぶつ
ようさん
きぬおりもの
じかまきほう
たうえほう
いねか
ほくびか
ね
か
蓄銭变位令を出して、貨幣の流通を活発にしようとしたらしいということが記録にのこっています。
■蓄銭变位令というのは、ある一定額の銭をたくわえて、それを国におさめる者に対して、額に応じて位階(いかい)をあたえるとする制度なんですが、どのていど行われたのかははっきりしていません。
?国域の拡大 【蝦夷と隼人】
■東北地方はもともと自然の幸にめぐまれ、狩猟?漁労?採集がさかんに行われていました。縄文時代の終わりごろには、北部を中心に亀ケ岡文化(かめがおかぶんか)が栄えます。弥生時代の後期になると、日本海を経由して、津軽地方(=青森県)にまで稲作が伝えられたようです。しかし、近畿地方を中心とする大和朝廷の勢力が強くなるにつれて、
とうほく
いみんぞく
えみし
けいゆ
つがる
さち
しゅりょう
ぎょろう
いかい
がく
ぜに
東北地方に住む人々は、朝廷から異なった文化をもつ異民族としてあつかわれ、蝦夷とよばれました。
■九州の南部に住んでいた人々も蝦夷と同じように異民族としてあつかわれ、隼人とよばれていました。隼人は武力や芸能で朝廷に奉仕するようになります。
■朝廷の力が充实してくるにしたがって、その勢力が東北地方や九州の南部におよぶようになり、蝦夷と隼人の平定に力が注がれるようになりました。
へいてい
そそ
ほうし
はやと
111
第2節 天平文化
● 外交関係
要点: a. 唐との交通 ①目的―制度?文化の輸入 ②第1回遣唐使―630年、犬上後田鍬が大使で渡航 ③8世紀には大規模化し、4艘で渡航、ほぼ20年ごとに派遣 ④航路―初期(7世紀)は北路であったが、新羅との関係が悪化し南路になる(8~9世紀) 遣唐使廃止(894 ⑤留学生―吉備真備?阿倍仲麻呂ら 学問僧―玄昉?空海?最澄ら 律立制度をもたらし、文化の向上に貢献 渡来僧―鑑真ら b.新羅との通交―使節の来日と遣使の派遣 従属国的な取り扱いで衝突 c.渤海との通交―唐?新羅との対抗上、日本にしばしば使節派遣 げんぼうきびのまきび
?天平文化
■ さて、この時代に、中国やシルクロード世界の影響を受けて興った絢爛たる仏教文化のことを日本文化史上特に「天平文化」と呼んでいます。仏教経典の研究や写経をはじめとして、建築、彫刻?絵画、美術工芸など、「百花匂うが如く」と喩えられますが、まさに天平文化は、東大寺の創建造営によって一気に昇華したといっても過言で はありません。
東大寺では、法華堂ならびに法華堂の諸仏はいうまでもなく、蓮華蔵世界を刻んだ大
ぶつ
ほっけどう
しょぶつ
れんげくら
きざ
だい
はっかくとうろう
ま
おんせいぼさつぞう
かごん
ひゃっかにお
ごと
てんぴょう
ぶっきょうきょうてん
しゃきょう
おこ
けんらん
仏さまの蓮華坐や大仏殿八角灯籠に舞う音声菩薩像などに、天平芸術の精華を今日なお間近にうかがうことができます。
また、天平文化を語るについては、悲田院?施薬院を設けるなど仏教の教えによる社会福祉にも意を尽くし、日本の仏教文化受容に積極的な役割を果たされた光明皇后も、大変大きな役割をはたされたといわねばなりません。
?遣唐使の派遣
――630年~894年 260年間に18回任命され,15回派遣される中国に対しては、隋が滅び唐となってからも引き続き、使節が送られた。
630年の犬上後田鍬を最初に、約260年間、18回計画され、そのうち15回が派遣された。遣唐使は、大使?副使をはじめ留学生?学問僧など、約4、500人が、一般には4艘の船に分乗した。
造船?航海術などの未熟な当時にあっては、東シナ海を横断することはきわめて危険で、
112
ぶんじょう
いぬうえご
たくわ
にんめい
やくわり
こうみょうこうごう
かなたいん
せやくいん