06章-奈良文化(6)

2018-11-23 12:46

758年(天平宝字2)、淳仁天皇の勅により大和上に任じられ、政治にとらわれる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を伝えられる配慮がなされた。 759年(天平宝字3)、新田部親王の旧邸宅跡が与えられ唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。

763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている(国宝唐招提寺鑑真像)が、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10)、淡海三船により鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。

しょうぞうちょうこく

しきょ

にゅうじゃく

にんもと

ひんみんきゅうさい

ちょうこく

やくそう

ぞうけい

ちょくやまとじょう

?唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の1つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国?唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。

唐僧?鑑真が天平宝字3年(759年)、故?新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。現存する経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。また、金堂も鑑真の没後に完成したものである。

鑑真(688年-763年)の数奇な生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などにくわしい。

5年(753年)10月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。

唐招提寺の講堂は、平城宮の殿舎を移築改造したものであった(現存)。また、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂、羂索堂(けんじゃくどう)は藤原清河の施入(寄付)であった。金堂は8世紀末頃の建築で、鑑真の没後にできたものである。

そうこ

しんでんぶしんのう

きゅうたくあと

ちょうてい

ゆず

きょうぞう

しんでんぶ

そうほんざん

ほんぞん

かいき

ごじょう

133

伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧?覚盛(かくじょう、1193-1249)によって復興された。

講堂(国宝)-平城宮の 東朝集殿を移築?改造したもの。東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、天平時代宮廷建築の唯一の遺構としてきわめて貴重である。堂内には本尊弥勒仏坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。1970年に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の破損仏を安置していた。

しんほうぞう

どうない

たすう

はそんほとけ

あんち

もちくにてん

ぞうちょうてんりつぞういこう

いりも

やづくり

きりづまづくり

ひがしあさつどいどの

いちく

?国分寺

国分寺(こくぶんじ)とは、聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ、こくぶにじ)とともに建立を命じた寺院である。正式名称は国分寺が金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、国分尼寺が法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)である。

各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ、国府のそばに置かれた。多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。大和国の東大寺、法華寺は総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。 律令体制が弛緩し、官による財政支持がなくなると、国分寺?国分尼寺は廃れた。その後再建され、当初の国分寺とは性格の異なる寺として現在まで維持しているところがある。かっての国分寺近くの寺で国分寺の遺品を保存していることがある。国分尼寺も同様だが、復興を受けなかったところが多い。

?社会事業

こうした官寺中心の国家仏教のいっぽうでは、社会事業につくした僧佀もあった。 宇野橋を作ったといわれた道昭(法相宗の祖)や、政府の弾圧を受けながら、池溝開発?布施屋設置などに尽力した行基は、その代表的なものである。

また、光明皇后は、貧しい民衆を救済するため、悲田院?施薬院を設けたし、多数の孤児を収容したという。

ひでんいん

せやく

こくじょうふあんちんぶ

こんりゅうめいじいん

こくぶんにじ

しかん

いひんほぞん

そうし

ほしやじんりょくぎょうき

134

?学 僧

当時の著名な僧佀としては、国分寺建立を献策し、『日本書紀』にもたずさわったといわれる道慈、経典を舶載し諸兄政権のもとで権勢を張った玄昉、律宗を伝えた鑑真、東大寺の建立に尽くした良弁などがいた。

ろうべん

げんほう

がんじん

そうし

第6節 天平の美術

要点: a. 建 築 ①東大寺法華堂―三月堂ともいわれる ②正倉堂―宝庫、南北二倉が校倉造 ③東大寺転害門―現存する唯一の創建時の門 ④法隆寺伝法堂?夢殿―法隆寺東院迦藍の中心建築 ⑤唐招提寺金堂―天平時代唯一の金堂遺構 ⑥唐招提寺講堂―平城京の朝集殿を移建 b. 彫 刻―写実性に富み、人間感情を豊かに表現、粘土造り塑像、麻布の上に漆を塗って、固めた乾漆像の技法が発達 ①東大寺法華堂日光?月光菩 像 ②東大寺法華堂執金剛神像 塑像 ③東大寺戒壇院四天王像 ④新薬師寺十二神将像 ⑤東大寺法華堂不空絹索観音像 ⑥興福寺十大弟子像 ⑦興福寺八部衆像のうち阿修羅像 技法は乾漆像 ⑧唐招提寺鑑真像 ⑨聖林寺十一面観音像 c. 絵 画― ①薬師寺吉祥天像 ②東大寺正倉院鳥毛立女屏風―樹下美人図ともいう d. 工 芸 ①正倉院宝物―聖武太上天皇の遺品を光明皇太后が東大寺に献納、それらの工芸品は天平文化の国際性を示す ②百万塔陀羅尼―称徳天皇が恵美押勝の乱の後に三重の木製小塔百万基をつくり、なかに陀羅尼経(現存する世界最古の印刷物)を入れる ③東大寺大仏殿八角燈籠 どうろうじゅかびじんかんしつぞうふくうけんじゃくしつこんごうしんぞうそぞうかんしつぞうねんどづくそぞうあざぶうえうるしぬてがい

?建 築

寺院建築として、東大寺法華堂(三月堂)?法隆寺夢殿?唐招提寺金堂?栄山寺八角堂?

ほっけどう

ゆめどの

とうしょうだいじ

135

新薬師寺本堂などがある。

また、唐招提寺講堂は、平城京の朝堂院内の建物(朝集殿)を移したものであり、法隆寺伝法堂は橘夫人の旧宅であるといわれる。

また、天平文化の宝庫といわれる東大寺の正倉院は、校倉造の代表的な建築である。

■ 東大寺のはじまりは、神亀5年(728)、聖武(しょうむ)天皇の皇太子、基(もと

い)王の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)にまで遡る ことができます。

この金鐘山寺において、天平12年(740)のこと、後に東大寺初代別当となる良弁が 主宰して、我国で初めて、『華厳経(大方広仏華厳経)』の講読がはじめられまし た。 ?唐招提寺

聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立するためを東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」から「唐招提寺」となりました。

がらん

きょしつ

しゅくしゃ

ほんぞん

ゆえしんでんぶしんのう

わじょう

けごんきょう

おおかたひろふつけごんきょう

きんかねやまでら

しょうそういん

あぜくらづくり

たちばなふじん

あさどういんない

たてもの

あさつどいどの

?栄山寺八角堂

栄山寺 (えいさんじ) は奈良県五條市にある真言宗豊山派の寺院。藤原武智麻呂(むちまろ)により創建された。山号は学晶山、本尊は薬師如来。奈良時代の建築である八角堂(国宝)があることで知られる。

栄山寺は古くは前山寺(さきやまでら)と呼ばれ、藤原不比等の長子である武智麻呂が養老3年(719年)に創建したと伝わる。その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄えた。南北朝時代には南朝の後村上?長慶?後亀山天皇の行在所が置かれていた。 ?新薬師寺

?新薬師寺?の?新?とは、前月掲載の西の京にある?薬師寺?に対するものではありません。

136

何故かと言いますと?新薬師寺?は華厳宗、?薬師寺?は法相宗で宗派が違うからです。ここ での?新?とは新しいという意味ではなく、霊験あらたかなの?あらたかな?という意味で、 あらたかな薬師寺ということです。

創建の理由は?聖武天皇?の病気平癒を祈願して?光明皇后?が造営したようですが光明 皇后の病気平癒を祈願した聖武天皇が造営されたという説もあります。

?正倉院

世界の宝庫

へいゆ

きがん

奈良?平安時代の中央?地方の官庁や大寺には,重要物品を納める正倉が設けられていました。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれたのです。しかし諸方の正倉は歳月の経過とともに亡んでしまい,僅かに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが

おうじ

いくとう

かんちょう

おおてら

じゅうようぶっぴん

おさ

往時のまま今日まで残りました。これがすなわち正倉院宝庫です。

この正倉院宝庫は,千有余年の間,朝廷の監督の下に東大寺によって管理されてきましたが,明治八年,宝物の重要性にかんがみ内務省の管轄となり,次いで農商務省を経て宮内省に移り,引き続き宮内庁の管轄するところとなっています。なお宝庫としては現在,古来の正倉のほかに西宝庫と東宝庫があり,いま宝物はこの両宝庫に分納して保存されています。

?彫 刻

仏像では、従来からの金銅?木造のほかに、加工が自由で写实に適した塑像、乾漆像も 作られた。興福寺八部衆像、東大寺法華堂不空絹索観音像?同日光月光菩 像?同執金剛

しんぞう

ふくうけんじゃく

しつこんごう

そぞう

かんしつぞう

ないむしょうかんかつ

にしほうこひがしほうこぶんのう

神像、東大寺戒壇院四天王像、新薬師寺十二神将像などの仏像とともに、鑑真像は、肖像彫刻の現存最古のものとして有名である。

吉祥天は「功徳天」「宝蔵天」とも呼ばれ、インドのヴィシュヌ神の妃で福徳を司る

くどくてん

ほうぞうてん

ふくとく

つかさど

137


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