書科 =筆迹の功秀をもって宗とし、字様を習解することは業としない 理科系: 算 科 =孫子?五曹?九章?海島?綴術?三開重差?周髀?九司 入学資格: (1)五位以上の子孫 (2)東西文部の子
(3)八位以上の子で熱心に願った者
(4)以上いずれも聡令で13以上16才までの者
(国学―地方の国府に作られた学校―には郡司の子弟が入学を許された、若し定 員に満たなければ 庶民の子弟の入学も許された。さらに、国学を修了し願うものは大学の入学が許されたので庶民にも中央の大学へ入ることが可能であった。しかし实際にこのようにして大学を卒業した庶民がいたかどうかはわからない)
奨学制度: 性識聡恵、芸業優長なる者10人以上5人以下を選び得業生として、夏の
服(時服)と食料を支給。
卒業試験: 文科系=教科書の選定には幾つかの組み合わせがあったが、専攻したコース
の2経以上に通じることが必要。大義10条を試問し、8条に通じていれば合格。式部省の国家試験受験資格がもらえる。
(式部省の国家試験には秀才科、明経科、進士科、明法科の4っのコースがあり、これ
に合格すれば变位された。その变位は、秀才科が最も高く上上合格は正八位上,上中合格は正八位下であり、明経科、進士科、明法科と一階級づつ下がって、いった。明法科と算科は同位であった)
?大学寮 (律令制)
大学寮(だいがくりょう)は、律令制のもとで作られた式部省(現在の人事院に相当する)
ちょっかつした
直轄下の官僚育成機関である。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教に
おける重要儀式である釋奠を行った。
大宝律令により制度的に確立したといわれる。入学資格としては、五位以上の貴族及び東西史部(代々記録を司った)の子供および孫に限られていたが、八位以上の官人の子供にも希望があれば入学が許されていた。卒業試験試問を受験し、その試験結果が8割に達すれば式部省が实施する進士?明法?明経?算?秀才のいずれかの試験を受け?上位成績になれば八位~初位の官位が授けられた。また、学生の一部には得業生として大学に残り博士を目指す者もいた。
はちい
しょぐらい
かんい
さず
がくせい
いちぶ
とくぎょうしょう
しんし
あきのり
めいきょう
さん
しゅうさい
つかさど
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施 設
大学寮の学生は基本的に寮内の寄宿舎で暮らし?そこで授業を受けた。これを直曹(じきそう)という。文章生は文章院、明経生は明経道院、算生は算道院、明法生は明法道院で暮らしていた。また平安時代には有力貴族が一族のための寄宿施設を設置した。これを大学別曹という。
さんしょう
あきのりしょう
第5節 国家仏教の展開
要点: a. 国家の保護 ①鎮護国家思想―為政者が仏教を保護すれば、仏法の加護により国家がうまく治まるという思想(金光明経?仁王経) ②教理研究 国家仏教として隆盛 1)南都六宗―三論?成実?法相?倶舎?華厳?律 2)七大寺―仏教教理の学問的研究としての大寺院=法隆寺?薬師寺?大安寺?元興寺?興福寺?東大寺?西大寺 3)鑑真―戒律を伝え、東大寺の戒壇をひらき、唐招提寺建立 b. 国分寺の建立 聖武天皇は741年、山背国恭仁京において、国分寺建立の詔を出す―藤原広嗣の乱、飢饉と疫病の流行 c. 大仏の造立 聖武天皇は743年、大仏造立の詔を出す の時代に大仏開眼供養 d.社会事業―仏教思想による社会事業 ①行基―はじめ民衆への布教活動を行い、政府の弾圧を受けるのち、社会事業に移す ②光明皇后―悲田院?施薬院を設け、貧者?病人を救う e.日本社会への定着―現世利益を求める手段、祖先の霊をとむらうための仏像造立や写経 神仏習合 ひでんいんせやくくに僧行基?良弁らの勧進により、752年孝謙天皇
?鎮護国家の仏教
鎮護国家の仏教は、金光明最王経などが、護国の経典として重視された。また、741 年国分寺建立の詔も鎮護国家の思想にもとづくもので、この結果、国ごとに、僧寺として金光明四天王護国之寺(国分寺)尼寺として、法華滅罪之寺が建てられた。
ほっけめつざい
こんこうみょうさいおうきょう
?奈良仏教
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この時代は国家仏教の性格をますます強めた。官寺を中心に学問や国家鎮護の祈祷が盛んに行われた。なかでも、聖武天皇は国分寺造営の詔(741)、大仏造営発願の詔(743)を行った。
国分寺は国ごとに僧寺と尼寺から成り、僧寺の塔には読誦すると四天王がその国土を擁護すると説かれた護国の経典『金光明最勝王経』が安置され、尼寺では国土の災害を除去し、女性成仏と庶民の滅罪のための経典として『法華経』が読誦された。
この時代は写経が盛行した。多くの写経生が経典を書写した。中国の三論宗、成实宗、
ほっそうしゅう
しゃきょう
さんろんしゅう
なるみしゅう
ぐしゃしゅう
けごんしゅう
りっしゅう
ろくしゅうは
じょうぶつ
しょみん
めつざいそうでら
あまでら
きとう
法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の六宗派(南都六宗)が留学生などによってもたらされ、奈良の都に東大寺、西大寺、法華寺、新薬師寺、唐招提寺などの大寺院が建立された。
ただ、これらの国家仏教は一般民衆の信仰とはかけはなれた存在だった。行基菩薩などの私度僧らが民衆へ仏教信仰を弘めた。
?国文寺の建立
聖武天皇による盧舎那大仏(大仏さま)造顕は、河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝した事がきっかけであったといわれていますが、『華厳経』の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏造顕という大事業の発願が可能だったのではないでしょうか。
このようなことを考えると、良弁により主宰されたわが国ではじめての『華厳経』講読の成果が、後の盧舎那大仏(大仏さま)造顕に結实したといっても過言ではありません。 ■一方、天平13年(741)には、聖武天皇により「国分寺?国分尼寺建立の詔」が発せられ、全国に国府を中心として僧寺(金光明四天王護国之寺、国分寺)と尼寺(法華滅罪之寺、法華尼寺、国分尼寺)が置かれると、金鐘山寺は大和国の国分寺に充てられ、金光明寺とも呼ばれるようになりました。
このようにして「盧舎那大仏(大仏さま)」の造像がはじめられるのですが、紫香楽の山に火災が頻発したことや地震が続いたことなどにより、国都は紫香楽から再び平
じょうきょう
ひんぱつ
こくと
むらさきかおりらく
ふたた
へい
うつ
やまとこくきんこうみょう
じ
ろしゃともだいぶつ
わたしたびそう
みんしゅう
ぶっきょうしんこう
ひろ
ぎょうき
ぼさつ
とうだいじ
さいだいじ
ほっけてら
しんやくし
じ
とうしょうだいじ
城京に遷され、これに伴い盧舎那仏造立の地も紫香楽から大和国金光明寺、即ち現
てらいき
へんこう
在の東大寺の寺域に変更されることになりました。
■また唐僧鑑真(がんじん)は、栄叡(ようえい)?普照(ふしょう)を遣わした我国からの律僧招請に応じ、渡海を試みること6度、12年の歳月を経て、天平勝宝6年(754)、漸く来朝を果たし、この年、大仏殿宝前に設けられたわが国初の戒壇に於て、聖武上皇?孝謙天皇等に戒を授けました。以後、鑑真は授戒伝律の指導者として、大仏殿の戒壇を移築した東大寺戒壇院を授戒の根本道場とするとともに、伝律の道場として唐招提寺を設けて戒律の教導に尽されました。
かいりつ
きょうどう
つくかい
さず
りつそうしょうせい
おう
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?南都七大寺と南都六宗
このような国家中心となったのが、南都七大寺と呼ばれた―薬師寺?大安寺?元興寺?興福寺、および法隆寺?東大寺と西大寺であった。これらの官寺を中心として仏教教理の
がくもんてきけんきゅう
がんこう
学問的研究がすすめられた。
大仏開眼のころには、三論?成实?法相?倶舎?華厳?律のいわゆる南都六宗が都整。
?法隆寺と薬師信仰
法隆寺は、斑鳩寺?鵤寺?鵤大寺?鵤僧寺?伊我留我寺?伊我留我本寺?伊河留
おおてら
いかるがるがでら
いかるがでら
いかるがおおてら
いかるがそうでら
い
がどめがでら
い
がどめがもとでら
いかわどめ
さんろん
じょうじつ
ほっそう
くしゃ
けごん
りつ
大寺等と、和名ふうに地名にもとづき、奈良朝以前のならわしで呼ばれてもいた。 中国ふうの、法隆寺、法隆学問寺との寺名は、奈良朝以後に一般に用いられたようである。
正史とされている日本書紀には、推古天皇十四年(六〇六)の条に「斑鳩寺」という寺名がはじめて表れ、天智天皇九年(六七〇)の条には「法隆寺」という寺名がはじめて使われている。
それは、法隆寺の金堂(本尊を安置する中心堂)の中の薬師如来像の光背の裏に刻み書かれている銘文に基くからである。 ?薬師寺
680年、天武天皇が菟野讃良皇后(うののさららひめみこ)(のちの持統天皇)の病気平癒のため発願され、創建された法相宗の大本山。創建当時は藤原京に建てられたが、718年に平城遷都に伴い現在の場所に移転。造営は808年頃まで続いた。しかし、数度の災害と1528年の兵火により、当時の建造物は東塔のみが現存。金堂は1976年に、西塔は1981年に、中門は1984年に、回廊は1991年に一部がそれぞれ有縁の人々のお写経勧進によって復興されている。 ?元興寺
?元興寺?とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である?法興寺?が、新京?平城京?に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後?飛鳥の法興寺は?本(もと)元興寺?と称されるようになりましたが平安時代に焼失してしまいました。本元興寺の跡には、有名な?止利仏師?の制作による?飛鳥大仏?を本尊とする?飛鳥寺(あすかでら)?が建立されております。?法隆寺金堂本尊釈迦如来像?も同じ止利仏師の作です。
131
元興寺は寂れるにしたがって寺域内に住宅が建ち並び宅地化が進みました。民家の 中にひっそりと元興寺があります。気をつけていないと見過ごしそうです。
元興寺の境内だった古都の風情を今に伝える奈良町をぶらりと散策されれば古き良き奈 良にタイムスリップすることが出来ます。 ?鑑真と戒律
唐の揚州江陽県の生まれ。14歳で智満について出家し、道岸、弘景について、律宗?天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された。
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。しかし、奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。 ?日本での戒律の確立
754年(天平勝宝6)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の登壇授戒の嚆矢である。併せて、常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。
とうだんじゅかい
そうあま
ちょく
かんたい
わたりび
わたりとう
えいさとし
すすむてらし
じゅかい
しょうせい
じちかい
ぎしき
じゅかい
かいりつ
じゅんしゅ
さんさく
さび
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