?漢文学
従がって、漢文学に優れた学者も多かった。遣唐使として入唐して多くの漢籍をもち帰り、軍学にも通じた吉備真備、鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』を著し、天皇の漢風諡号の撰進者でもある淡海三海、日本最初の私設図書館といわれる芸亭を設けた石上宅
つぐ
とうだいわじょう
かんぷう
しごう
おうみのみふねいそのかみのやか
嗣をはじめ、阿倍仲麻呂などが有名である。
また、751年には、天智天皇から奈良時代にかけての、皇族?貴族?僧人などの作品を集めた最古の漢詩集である『懐風藻』が撰進された。
えらぶすすむ
?懐風藻
懐風藻(かいふうそう)は、日本文学史上最古の漢詩集。
奈良時代、天平勝宝三年(751年)に編纂された。撰者は良くわかっていない。詩人略伝に近江朝に同情的な筆致が伺われ、大友皇子の曾孫にあたる淡海三船を作者に擬する根拠の一つとなっている。
64人の作者による約120篇の詩からなり、その大半が五言である。作者は大友?川島?大津の三皇子をはじめ、ほとんどが皇親?官人。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きい。
『懐風藻』成立当時は、和歌より漢詩の方が重要視され、また漢文が公式な文書とされていた。この集が収める作品も、多くが公の宴席で詠まれたものであり、当世の気風を反映している。 ?大津皇子―漢詩集
『懐風藻』 大津皇子?漢詩二篇
?和 歌
こうした唐文化の影響を強く受けた反面、日本固有の文学として和歌も盛んとなり、そ れら約4500首を集めた和歌集―『万葉集』が大伴家持を中心に編集された。 それは、万葉仮名で記され、長歌?短歌?旋頭歌など形式?内容は多彩であり、作家は天皇?貴族?僧人から東国の農民にいたるまで、あらゆる階層と地域にわたっている。
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せどうか
ひっちひまごぎ
すべらぎおやかんじんふか
こうえんせきよとうせいきふう
おおとものやかもち
代表的歌人としては、長歌に優れた宮廷歌人柿本人麻呂、儒教?仏教的観念の強い社会?人生を主題とした山上憶良、自然の变景に優れた山部赤人、老荘思想の強い大伴旅人。女流歌人として、額田王などがあげられる。
?万葉集
万葉集(まんようしゅう)とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である。『萬葉集』が本来の表記であり、日本の文部省?国語審議会の漢字制限(当用漢字、常用漢字)後は「万葉集」と書く。
天皇、貴族から名もない防人、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3)以前と見られる。 書名の由来
『万葉集』の名前の意味については、幾つかの説が提唱されている。ひとつは「万の言の葉」を集めたとする説で、「多くの言の葉=歌を集めたもの」と解するものである。これは古来仙覚や賀茂真淵らに支持されてきた。仙覚の『万葉集註釈』では、古今和歌集の仮名序に、
やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける
とあるのを引いている。ただし、古今集の成立は万葉集よりも時代が下るので、この語釈
ぎもん
くだ
ごしゃく
せんさとる
ていしょうひょうき
がくたおう
おおとものたびと
きゅうていかじん
が万葉集成立後にできあがったものという可能性も否定できず、そのまま万葉集の由来としてあてはめることには疑問もある。
その他にも、「末永く伝えられるべき歌集」(契沖や鹿持雅澄)とする説、葉をそのまま木の葉と解して「木の葉をもって歌にたとえた」とする説などがある。研究者の間で主流になっているのは、古事記の序文に「後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲ふ」とあるように、「葉」を「世」の意味にとり、「万世にまで末永く伝えられるべき歌集」と取る考え方である。
歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中?下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったが考えられる。
きない
かくだい
こうぞく
きぞく
なか
かきゅうかんじん
はきゅう
まんせい
すえなが
こ
は
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歌 風
「防人の歌」(さきもりのうた)「東歌」(あずまうた)など、貴族以外の民衆の歌が載っている極めて貴重な資料でもある。派手な技巧はあまり用いられず、素朴で率直な歌いぶりに特徴がある。賀茂真淵(かものまぶち)はこの集を評してますらをぶりと言った。 万葉仮名
全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。
?万葉歌人-大伴家持
大伴家持(おおとものやかもち)は万葉集の成立に深くかかわっていたのですが、編纂者(へんさんしゃ)かどうかははっきりとはしていません。 大伴家持(おおとものやかもち)の歌は、万葉集に479首も載っていますの でここでは抜粋を掲載させていただきますね。 大伴家持(おおとものやかもち)について詳しくお知りになりたい方は水垣さまの波流能由伎(はるのゆき)をご参照くださいね。
概要 奥さんは、大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)です。 備考 そぼく
そっちょく
生年?没年 養老2年(718)? ~ 延暦4年(785) 出自 家族 父 : 大伴旅人(おおとものたびと) 母 : 不明です 子 : 永主(ながぬし)
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代表作品:
0408: なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ 0744: 夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を 1640: 我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
?万葉歌人-山部赤人
山部赤人(やまべのあかひと 生没年未詳)
奈良時代の歌人。制作年の知られる歌はすべて聖武天皇代の作である。広く各地を旅していたらしい。閲歴は全く不明であるが、下級官人であったろうと推測される。また故藤原不比等邸の「山池」を詠んだ歌があり、藤原氏との深い関係が窺われる。万葉集収載歌は長歌13首、短歌37首。古来柿本人麻呂と並称された歌仙。大伴家持の書簡に記された「山柿の門」の「山」は赤人を指すと見る説が有力であり(但し山上憶良説などもある)、古今集序では人麻呂と共に歌仙として仰がれている。勅撰集には拾遺集を始め50首程入集している。
0317: 天地の別れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる.......(長歌)
0318: 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 0947: 須磨の海女の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
?万葉歌人-額田王
万葉集の代表的歌人の一人です。最初は大海人皇子(おおあまのみこ:天武天皇)に嫁ぎ、のちに天智天皇に仕えました。
有名なのに、生まれや身分などはよく分かっていないようです。額田王につ
いては、日本書記に「天皇(天武天皇のこと)、初め鏡王(かがみのおおきみ)の娘、額田王をめして、十市皇女(とをちのひめみこ)を生しませり。」とあるぐらいです。「薬師寺縁起(やくしじえんぎ)」にも同じようなことが書かれているようです。
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こきんしゅうじょ
あお
ちょくせんしゅう
しゅういしゅう
へいしょう
かせん
えつれき
かきゅうかんじん
?万葉歌人-大伴旅人(おおとものたびと)
万葉集には「大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おおともきょう?おほとものまえつきみ)」とか「大納言卿(だいなごんきょう)」などの敬称で載っています。 万葉集には、76首の歌が載っていますが、「酒を讃(ほ)むるの歌13首」というのが目立ちますね。お酒が大変好きだったようです。
万葉集以外に、「懐風藻(かいふうそう)」に五言一首が載っています。
代表の作品:
0316: 昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも 0332: 我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため 0333: 浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
?平城京式部省大学寮
所在地 : 左京三条一坊九、十、十五、十六坪(長屋王邸の東一坊大路を隔てた西隣)
(平城京内の所在地は確定していない。これはわかっている平安京内の所在地か らの推定である)
教授陣 : 博士(明経道) 1名 助博士(明経道) 2名
直講(明経道) 3名 律博士(明法道) 2名 文章博士(文章道) 1名 算博士(算道) 2名 書博士(書道) 2名 音博士(音道) 2名
募集人員: 文科系=明経科 370名、文章科 20名、明法科 10名→20名(天平21年)
書科 若干名
理科系=算 科 30名→20名(天平21年)
教科書: 文科系:明経科=周易?尚書?周礼?儀礼?毛詩?春秋左氏伝?孝経?論語 文章科=史記?漢書?後漢書?文選?爾雅 明法科=大宝?養老律令
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