ラクシュミーであるという説が有力。仏教でも早くから取り入れられ、徳叉迦竜王が父、鬼神母神がで、毘沙門天の妃ということになっている。名前の通りに富と豊饒の神。七福神が定まる前は福禄寿にかわって七福神にも加えられたほど。
吉祥天女[きちじょうてんにょ]は福徳豊穣の守護神として崇敬され、この吉祥天女
じょわざわしょうふく
まつ
ふくとくほうじょう
きっしょうてんおんな
せつゆうりょく
の前で年中の罪業[ざいごう]を懺悔[さんげ]し、除災招福を祈る、いわゆる吉祥悔過[きちじょうけか]の本尊として祀られています。
この吉祥天像のお姿は光明皇后[こうみょうこうごう]を写したと伝えられ、麻布に描かれた独立画像としては、日本最古の彩色画です。
慈恩大師(じおんだいし)(631~682)は、名を大乗基または単に基と呼び、17歳で玄
じょうさんぞう
だいじょうもと
げん
こうみょうこうごう
あざぶ
奘三蔵の弟子となり、瑜伽唯識の法を究め、『成唯識論(じょうゆいしきろん)』とい
しゅうたいせい
ほっそうしゅう
ひゃくほん
そ
ひゃくほん
ろんし
すうけい
きょう
めぐむおんだいし
めいにち
ゆとぎゆいしきほうきわ
う書物を完成させて法相教学を集大成し、法相宗を開かれた宗祖です。後世「百本の疏
しゅ
主、百本の論師」と呼ばれ崇敬されました。今日では慈恩大師の命日にあたる11月13日に、慈恩大師の画像をご本尊としてかかげ遺徳を讃嘆し、伝統的な講問論議を行なう慈恩会(じおんね)が厳修(ごんしゅう)されています。
平成3年(1991)に復元復興された二天王像は、享禄元年(1582)の兵火により中門とともに焼失しました。その後約400年復興をみることがありませんでしたが、昭和59年(1984)お写経勧進により中門が復興され、それに伴う発掘調査により裸形の仁王
ぞう
しゃきょうかんじん
ちゅうもん
ふっこう
はっくつちょうさ
らぎょう
におう
はんめい
にてんのうぞう
せいあんだい
しょうしつ
ふくげんふっこう
にてんのうぞう
きょうろくがんねん
へいか
ちゅうもん
ほんぞん
いとく
さんたん
像ではなく武装した二天王像ということが判明しました。二天王像の形式は、中国西安大
がんとう
雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考にしました。 ?絵 画
絵巻物の一つの源流と考えられる『過去現在因果経』のほか、唐美人そのままである薬師寺の吉祥天画像がある。有名な正倉院鳥毛立女屏風に描かれた樹下美人図は、わが国の画工司の画人の作といわれ、わが国の絵画技術の発展をみることができる。
色彩の施し方や線描は非常に素朴かつ自由で、当時唐朝本土よりの影響を受けたトルファン地域の画風を伝えている。女性の衣装?髪型やかんざしの挿し方、更に化粧法などは八世紀盛唐期の風俗を反映している。唐時代の紙本の遺品が現存するのは極めて貴重である。
?工 芸
聖武天皇の遺品、大仏開眼の儀式に用いられたものなど、1万点近くを納める正倉院宝 物の工芸品は、いずれも高度な水準を示し、国内で作られたものと同時に、中国製や遠く
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だいぶつかいがん
かみもと
いひん
げんそん
けしょうほう
ほどこ
かた
せんびょう
きちじょうてん
じゅか
びじん
かどがきたちばなふじんずしとびらえなど
東ローマ?イスラム?インドの意匠も伝えており、螺鈿紫壇五絃琵琶や紺瑠璃杯などは有名である。
らでんしたんごげんびわこんるりりのつき
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