前期には――朝鮮半島沿いに行く北路がとられた。
後期には――新羅関係の悪化により、やむをえず遭難の危険性の多い東シナ海を横断する
なんろ
ほくろ
南路をとらざるをえなかった。
<目的>
① 唐の政治制度や文化を摂取し,国内の支配体制を強化すること。
② 唐との間に友好的外交関係を確立し,優位な対新羅関係を確保すること。 遣唐使は、唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報入手と、先進的な唐文化の摂取が目的でしたが、日唐関係が安定した八世紀以降は後者の比重が大きくなりました。 唐の諸制度や文化に通じた留学生?留学僧は、建設間もない日本の律令国家を整備する上で不可欠であり、その意味で遣唐使は律令国家の繁栄を支えていたのです。 今の東京大学のような官僚養成大学が無かったので、外国に情報収集もかねて留学さ せたということです。しかし当時は航海技術が未熟であったため、渡航はまさに命が けでした。
<主な渡唐者>
犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)?????630年第1回遣唐使として派遣される。 吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)????天平期の政治?文化に影響を与えた。 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)?????帰国できず,唐で仕える。
<遣唐使の中止>
200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献したが、894年(寛平6)に菅原道真の建議により廃止された。しかしそれは結果的に正しく、唐は907年(延喜7)に滅亡し、日本はその後の泥沼の戦争に巻き込まれずに済んだ。反対に、その当時の貴族の気概のなさを示すことでもあった。
?書芸殿堂の達成
平安時代初期にはいり、中国尊重の傾向が特に著しく、唐との交通、遣唐使などの影響により、晋唐風書の大成を築く。日本三筆(嵯峨天皇?空海?橘逸勢)を初め多くの能手を輩出した。
はいしゅつ
しんとうふうしょ
たいせい
きず
さ
が
くうかい
たちばなのなのはやなり
けんとうし
めつぼう
どろぬま
せんしんこく
こうかいぎじゅつ
みじゅく
いのち
かんりょうようせい
ふ
かけつ
ひとう
ひじゅう
113
?かなの誕生
かな文字の発生:一方漢字?漢文の拾得と並行して、漢字の義を捨てその音だけで 日本語を表記する方法が工夫された。即ち一字一音による表記で、書体は楷書の「万葉仮名」である。
奈良時代以前の漢字専用時代には、仮名としてはこれにかぎられ、特に万葉集に多種多
よう
た
いちじいちおん
しょたい
かいしょ
しゅうとく
ぎ
す
様に用いられていたのでこの名がある。
漢字の表音的用法は古く、3世紀ごろ中国で編纂された「三国志」の中の「魏志倭人伝」に、日本人の名、地名など中国語に解釈できない固有名詞の表記に使われています。 日本でも固有名詞を表記することから始まったようで、5世紀中ごろの熊本県江田船
やまこふんしゅつど
くまもとけんえ
たふな
たち
めいぶん
ぎ
し
わじんでん
山古墳出土の太刀の銘文に「伊太加 いたか」「无利弖 むりて」などが見られる。 8世紀後半に成立した「万葉集」では、一字一音の万葉仮名と訓の表記法で、日本語を完全に表記できるようになっており「かな」が文字として成立しています。漢字伝来から約700年を要したことになります。
片仮名(カタカナ)――万葉仮名の篇や旁の一部を取った簡略字「片仮名」は、9世紀 初頭より主に南部古宗の学僧が漢文の古訓点の付訓仮名として発達した。奈良時代の吉備 真備(きびのまきび)作といわれているが確証はない。12世紀にはほぼ現代の形となっている。
和様体 (わようたい) 中国の唐様(からよう)に対して呼ぶ。今まで摂取した晋唐風が、 9世紀の遣唐使の停止、唐の衰退などにより、中国文化の影響も弱まり日本独自の国風文 化に同化され、豊満で柔らかく暖かい新風「和様体」が日本三蹟(小野道風?藤原佐理? 藤原行成)平安中期の能手によって成立された。
10世紀初めに「古今和歌集」の成立を見たのもその顕著な例であろう。
ほうまん
しんとうふう
かくしょう
へん
つくり
かんぜん
ひょうき
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草仮名 (そうがな) 草の手とも呼び、「かな」発達過程に於いて、楷書体の万葉仮名(男
で
でんお
のどうふうふで
ふじわらたすくりふで
がうたきり
かいしょたいおとこ
手)が次第に書きくずれ草書化段階の仮名を「草仮名」という。伝小野道風筆「秋萩帖」?伝藤原佐理筆「賀歌切」などが有名で、これらは10世紀後半の遺品であり、和歌の隆盛、それにともなう女手(ひらかな)全盛を迎えてもなお、草仮名は表現に変化と多様性を加味する一つの書体として、永く命脈を保ている。現在のかな書作品にも多用されている。 平仮名 (ひらがな) 草仮名をさらに書きくずして簡略化してできた文字「平仮名」女 手とも呼ぶ。伝紀貫之筆「高野切第一種」他多数の古筆がのこっている。 書体の変遷:漢字の伝来から約700年を要してできた日本文字の基礎、中国では篆書?
れいしょ
てんしょ
そうしょ
かいしょ
ぎょうしょ
きのつらゆき
ふで
たかの
きりだいいち
しゅ
ほかたすう
ふるふで
めいみゃく
たも
ぜんせい
隷書?草書?楷書?行書の5体ができたと同じように、日本でも片仮名?平仮名を創り上げた。特に7世紀(奈良時代)の中国文化の追随に始まり晋唐風書の大成を築いた。 9世紀の遣唐使の停止や唐の衰退などにより、和様体のごとく大陸文化の影響が薄れ文化の国風化が進み、「かな文字」はますます磨きがかかっていった。平安時代(400年)は正に、宗教?学問?文学?芸術等百般にわたって隆盛進展の一路をたどり、わが国国文化史上に大きな足跡を遺した最も輝かしい時代である。
のこ
もっと
かがや
まさ
ひゃっぱん
すいたい
うす
ついずい
しんとうふう
?留学生阿倍仲麻呂
阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年)~宝亀元年(770年))は奈良時代
の遣唐留学生。唐で科挙に合格し、高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。中国名を朝衡という。 698年阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして
がくさい
こうかん
学才を謳われた。717年多治比県守が率いる遣唐使に同行して唐の都、長安に留学する。同期の留学生には吉備真備や玄昉がいた。仲麻呂は科挙を受験したところ合格したので、725年洛陽の司経局校書として任官し、728年左
しゅうい
つかさきょうきょくこうしょ
にんかん
ひだりたすくか
かきょ
うたたじひあがたもりひき
拾遺、731年左補闕と官位を重ねた。 仲麻呂は李白や
あんなん
ひょうちゃく
王維と親交があったという。一度は帰国の途につくものの、
ぼうふう
暴風に遭って安南(今のベトナム)に漂着した。帰国を
果せぬまま在唐五十余年、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。唐土に骨を埋めた。 ?学問僧空海
空海(くうかい、宝亀5年6月15日(774年7月27日)
- 承和2年3月21日(835年4月22日)は、「弘法大師」の諡号(醍醐天皇、921年)で
こうぼうだいし
う
もろこし
ほね
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も知られる日本真言宗の開
祖。俗名は佐伯真魚佐伯眞魚)。最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏
教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。また、書道家としても能筆で知られ、嵯峨天皇?橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。
?学問僧―最澄
最澄は中国の天台山などに留学し、日本に天台宗を
ひら
てんだいしゅう
ひえいざん
へきとう
さえきのま
お
開いた。法華経中心の天台宗を日本にもたらし、比叡山
えんりゃくじ
延暦寺を開き、以来日本の仏教研鑽の中心地となる。そこでは多くの鎌倉仏教の祖師達を輩出する。また、最澄の業績には独自の戒壇の得たことがある。本来、僧侶になるための受戒が必要であるが、国家により運営された大寺院にそれが委ねられていた。最澄の戒壇の問題は大乗仏教と小乗仏教の戒律の問題とされているが、国家権力に緊縛された
かいだん
だいじょう
しょうじょう
かいりつ
きんばく
じゅかい
ゆだ
そうりょ
けんさん
戒壇を、仏教側の自主的管理に取り戻したという意義がある。比叡山大乗戒の独立は、最澄の没後7日目に勅許された。
東大寺で授戒した最澄は、律を三ヶ月間修行し比叡山に入った。この時最澄は、「因無くして果を得、是の処り有ること無く、善無くして苦を免る、是の処り有ること無し」と述べ、物事の因果の理法を厳しくとらえている。
?新羅との通交
新羅は、668年来航し、その後日本からも遣新羅使が派遣されるなど、日本との新羅 の通交が繰り返された。8世紀のはじめに唐と新羅の親密さが増すと次第に悪化し、8世紀後半には、遣使がほとんど行われなくなった。奈良時代が終わるとともに、日本と新羅の公的関係は終わった。
6世紀末以降、新羅が朝鮮半島を統一する676年までをいう。これ以前に三国では支配体制の変革が起こり、西方での隋唐帝国の出現による新たな国際関係に処するようになった。日本でも多くの地域で前方後円墳の造営が終了し、一方で飛鳥寺の建立、推古女帝の即位?聖徳太子の摂政就任と、支配体制と文化の変革は確实に進展していた。
?渤海との通交
唐?新羅との対抗状態にある渤海は、日本に通交を求め、727年から926年に約200年間、36回の使節を送った。その目的もしだいに貿易に重点が移ったが、唐との連絡や遣
けん
たいこうじょうたい
ぼっかい
せっしょうしゅうにん
へんかく
しょ
さんごく
けんし
つかしらぎ
つか
はけん
いんが
りほう
じゅかい
りつ
ぼつご
7
か
め
ちょっきょ
116
とうし
唐使の通交などで果たした役割も重要であった。
つうこうは
第3節 天平文化と大陸
要点: 平城京時代の文化、聖武天皇時代が中心―天平文化 文化の特色: ①唐文化の影響を受け、国際的性格が濃厚 ②律令体制完成期を反映して、雄大な性格をもつ ③鎮護国家思想にもとづく仏教 ④平城京を中心とした貴族文化 てんぴょう
聖武天皇の天平年間(729~749年)を中心にさかえた奈良時代の文化。 〔唐の影響を受けた仏教文化〕
唐(中国)の文化の影響を強く受けた貴族中心の仏教文化で,インド?ペルシャ?アラビアなどの文化もとり入れられて,国際性に富んでいる。律令国家の発展を反映した壮大?華麗な文化で,平城京を中心にさかえた。
?天平文化の特色
貴族の文化――天平文化は、聖武天皇の天平年間を中心にした奈良時代の文化をいう。 この文化の担い手は貴族であり、都の平城京を中心にした貴族生活が基盤になっていた。 それは、豪族や地方民衆からみれば異国風な世界であった。
天武天皇――701~756(大宝1~天平勝宝8)奈良朝第3代の天皇。文武天皇皇子。母 は藤原不比等の長女宮子。714年(和銅7)14歳で立太子,719年(養老3)19歳で朝政 を聴き,724年(神亀1)24歳で即位。
奈良朝文化が最高潮に達した時期である。対外的には,2回にわたって遣唐使を派遣し,727年(神亀4)渤海との通交も初めて開け,新羅との交通は頻繁で,文物の輸入は盛んであった。
国内では,再三にわたり蝦夷地の平定?開拓につとめ,篤く仏教を敬い鎮護国家のため諸国に金光明最勝王経を頒ち,国ごとに丈六の釈迦像をつくらせ,国分寺建立を
みことのり
きんこうみょうさいかつお
きょう
はん
くに
じょうろく
しゃか
ぞう
いっさいきょう
しゃきょう
だいぶつ
ちゅうぞう
あつ
ぶっきょう
うやま
ひんぱん
ぶんぶつ
ゆにゅう
あさせい
たいほう
てんぴょうしょうほう
いこく
にな
詔し,一切経を写経し,大仏を鋳造し,東大寺を建立し,鑑真らの高僧を招いた。 また難波?恭仁?紫香楽の諸京を造営し,740年(天平12)の藤原広嗣の乱後はし
なんば
きょうひと
むらさきかおりらく
ばしば都を移した。これらの造寺?造仏などの大事業は,いずれも奈良朝文化の象徴であ
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