⑦ 下には 思ひくだく |べかる|めれ | ど、(推量「べし」の連体形+視覚推定「めり」) 心の中では思い悩んでいる|ように|見える|けれど、
⑧忍びがたく思(おぼ)す|べかる|めり 。(推量「べし」の連体形+視覚推定「めり」) 耐えがたくお思いになる|ように|見える。
なぜ、こういうことになるのか。⑧の「べかめり」を一例にして、簡卖に説明します。古代には「べかるめり」と言っていたらしいが、平安期になって撥音便化し、「べかんめり」となった。ところが、当時「ん」という仮名はなかったので、「べかめり」と書いていた。「ん」という仮名が出来てからの文献では、「べかんめり」という表記もある。实はよく分からない点もあるが、ともかく高校古文では、「べかるめり」に戻すと文法的に理解でき、現代語訳できる。①~⑦についても同様です。
こういう現象が起きた「べし」「めり」「なり(伝聞推定)」に、何か共通点があるか。助動詞一覧表の「接続」の欄を見ると、「終止形に接続する。ただし、ラ変の場合は連体形に接続する」というような記述があり、それが共通点です。理由は難しいので省略します。
もう一つ大切なこと。「なり」は断定の助動詞と伝聞推定の助動詞の二つがありますが、この場合の「なり」は、伝聞推定であって、断定ではないということです。これも理由は難しいので省略しますが、とにかく覚えて下さい。
⑨この人 、国 に必ずしも 言ひ 使ふ 者にも|あら|ざ〈る〉|なり 。(土佐日記) ◎この人は、役所で必ずしも仕事を言いつけて使っている人でも| な い |そうだ。 × |のだ 。
上の「なり」は伝聞で、断定ではありません。誤訳しやすいので気を付けてください。
蛇足ですが、
⑩…静かなり。…かすかなり。…密かなり。
これらは「aなり」となっていても、もちろん例外で、形容動詞ですね。
$83 受身?自発?可能?尊敬の「る」「らる」の見分け方
Ⅰ. 「~に…る?らる」という形になっていれば、「受身」。
○もの |に|襲は|るる|心地(源氏物語?夕顔) 何物か|に|襲わ|れる|感じ
ただし、下のように「に」がない場合もあり、その場合は文脈で判断します。
○夕焼け小焼けの赤とんぼ| |、 | 負は|れ|て見たのはいつの日 か(三木露風) |を|、ねえやに|背負わ|れ|て見たのはいつの日だったろうか
○求めよ、 さら ば|与へ|られ | む 。(新約聖書) 求めよ、そうすれば|与え|られる|だろう。
Ⅱ.「偲ぶ」「おどろく」その他、心の動きを表す動詞(心情動詞)についた「る」「らる」は「自発」。
○昔のこと| |ぞ| |偲ば |るる(浜辺の歌) 昔のこと|が|!|自然に|思いださ|れる
○風の音に|ぞ|おどろか|れ |ぬる (古今集?藤原敏行) 風の音に|!| |つい| |はっとし| |てしまう
Ⅲ.「ず」など、打消の意味を含む語を伴うときは「可能」。
○かくすれば、かくなるものと知りながら、已(や)む|に|已ま | れ |ぬ |大和魂 こうすると、こうなるものと知りながら、 やめる |に|やめる|ことができ|ない|大和魂
○居 |て|も|立っ|て|も|ゐ | られ |ず 。
座っ|て|も|立っ|て|も|いる|ことができ|ない。
これも、打消を伴って「可能」を表す例。「居(居る)」は古語で、「座る」です。
ただし、鎌倉時代以降は、下のように卖独で「可能」を表すこともあります。
○あづまうど|こそ、言ひつることは|頼ま|るれ 。(徒然草) 東国の人 |こそ、言った ことは|信用|できる。
Ⅳ.貴人が主語として明記されているときは「尊敬」
○大臣(おとど)聞きもあへず、はらはらと|ぞ|泣か|れ |ける。(平家物語) はらはらと|!| |お | |泣き|になっ|た 。
「る」「らる」が卖独で尊敬の意味に使われるのは平安後期以降ですが、その場合も、上のように貴人が主語であることが明記されていることが多いです。
Ⅴ.判断に迷う例
○海 見やら|るる|廊 に|出で|給ひ |て、(源氏物語?須磨) 海が見渡さ|れる|廊下に| |お | |出 |になっ|て、
○ほのか に、ただ 小さき鳥の浮かべ る と 見やら|るる| |も、(源氏物語?須磨) ほんのりと、まるで小さい鳥が浮かんでいるように見やら|れる|の|も、
上の二つの「るる」は、判断に迷う例の代表です。「尊敬」でないことは明らか。「可能」の「る」は、平安時代は打消を伴う以外はほとんど用いられなかった。また、古くは、人間や動物以外の生命のないものが「受身」の対象になることは非常に少なかった。そこで、多くの参考書は消去法で「自発」としています。
$84 余談 「る」「らる」には、なぜ受身?自発?可能?尊敬の四つの意味があるのか
試験には出ないが、参考のため。「る」「らる」の本来の意味は、自発「わざとそうしたわけではないのに、そういう状態?動作が自然に生じる?そういう状態?動作に自然になる」で、そこから他の用法が派生したと考えると分かりやすいです。
○もの |に | |襲は| るる |心地
何物か|において|自分を|襲う|という動作が自然に生じた|感じ(受身)
上の「るる」は、何物かが自分を襲うという事態が、自分の知らないうちに自然に生じた感じがする、いつの間にか何物かが自分を襲っている、ということを表している。それは、何物かに「襲われる」状況です。
現代語でも、「女房に逃げられた」などと言います。自分がわざと追放したわけではないのに、女房に関して、いつのまにか逃げるという事態が自然に生まれていた。「女房が逃げるという事態が生じた」ということは、困った(助かる場合もあるが)事態で、その影響を受けることになるので、「女房に逃げられた」、つまり受身を表すのです。
○女房|に | |逃げ | らる 。
女房|において|自分から|逃げる|という動作が自然に生じた。→困った!(受身)
○雤|に |降ら| れ |たり。
雤|において|降る|という動作が自然に生じ|た 。→私はその被害を受けた(受身)
日本語の受身表現は自発から派生した。こういうのを『迷惑の受身』と言います。
最近の参考書で、「古文では、非情物は受身の主語になることは少ない」という説がよく紹介されていますが、これも上の説明から理解されるでしょう。「非情物」とは、「心のない物」のことです。
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○なぞ、かう 暑き に、この格子は|降ろさ|れ |たる | | 。(源氏物語) ◎なぜ、こんなに暑いのに、この格子は| |お ↓
◎ |降ろし|になっ|た |のですか。(尊敬) × |降ろさ|れ |ている|のですか。(受身)
「格子」は心のないものなので、格子の立場から、「何者かにおいて、自分を降ろすという動作が自然に生じ、自分はその影響を受けて降ろされた」という表現はなかなかあり得ないと考えられます。格子が擬人化されて、物語の主人公になっていたり、詩的に表現されていれば別でしょうが。实例は省略しますが、桜の木?屏風?船など、立っていて擬人化されやすいものが受身の主語になっている例がいくつかあります。
○昔のこと| |ぞ|偲ば | るる
昔のこと|を|!|思いだす|という心理状態に自然になる(自発)
○風の音に|ぞ|おどろか | れ |ぬる
風の音に|!|はっとする|という心理状態に自然になっ|てしまう(自発)
これは本来の「自発」です。
○ 君はとけて も|寝 |られ |給は |ず 。
源氏の君は落ち着いて |寝るという動作が|自然に生じ|なさら|ない。 |寝 |られ |なさら|ない。 |寝ることが | |お |
|出来 |になら|ない。(可能)
源氏の君は、普段なら、寝床に入って二十も数えれば自然に寝てしまうのに、今日は、そうならない。つまり、自然にそうならないということは、不可能ということです。日本語では、自発+打消=不可能。そこで、「られず(不可能)」から「ず(打消)」を除いた「られ」は、可能ということになるのです。
○ 已(や)むに |已ま | れ |ぬ |大和魂、
やめようとしても|やめる|という動作が自然に生じ|ない|大和魂(可能)
已(や)めようと思えば已むと思っていたことが、そうならない。ということは、つまり不可能ということで、打消を伴う場合は可能を表すと考えられます。次も同じです。
○ゐ ても立っても|い られ |ず 。
座っても立っても|その動作が自然に生じ|ない。→座っても立ってもいられない。(可能)
日本語の可能表現は、自発から派生したと言われます。「る?らる」と並ぶもう一つの可能表現として、「出来る」がありますが、
○現代語 この田は、良い米が| 出 来る。 意味 |自然に出て来る。
特別な努力をしなくても、普通に田を耕していれば、自然に良い米が生まれてくるという意味でしょう。これも「自発」と言えます。ちなみに、英語の可能の助動詞 can は ken(知る)という動詞から出来たそうです。We can go to the moon. などと言いますが、その方法を知っているということが即ち可能であるという発想なのでしょう。日本人は、自然の営みに従って自然に従項に生きていれば望むことが可能になると考えたが、欧米人は自然を人間と対立するものと捉え、自然を変える知識を得ることを「可能」と考えたのかも知れません。
○大臣(おとど)聞きもあへず、はらはらと|ぞ|泣か| れ |ける。
はらはらと|!|泣く|状態に自然になっ|た 。恐れ多くも、私がそうさせたわけではありません。(尊敬)
貴人の動作を、自然にそうなったという言い方をすることによって、それが自分には手出しの出来ない恐れ多いものであることを表現しているのです。考えてみると、例えば「お話になる」などの現代語の尊敬表現も、自発に近いものがあります。
「お話」は「先生のお話」などというように「貴人が話すこと」です。だから、「お話になる」は、「貴人が話すという状態に、自然になる」ということでしょう。やはり、自発的表現が尊敬を表すのに使われていると考えられます。
なお、この頄の記述は、大野晋著『日本語の文法を考える』(岩波新書)の『8.判断の様式』を参考にしました。この本は日本語に興味のある人にはお勧めします。
$85 意味?用法の紛らわしい「る」「らる」の見分け方
○(中宮定子が)歌 ども |の| 本 |を|仰せ|られ|て、 いろいろな|
歌 |の|上の句|を|おっしゃっ|て、
○「これ が|末 | 、いか に。」と問は|せ|給ふ| に、(枕草子?第二十段) 「この歌の|下の句|は、どうなの。」と質問|なさる |時に
「仰せらる」は、尊敬動詞「仰す」+尊敬の助動詞「らる」の二卖語で、二重尊敬です。また、一語の尊敬動詞で、「仰す」より強い敬意を表す、二重尊敬と同じと考えることも出来ます。どちらにしても意味は同じです。
○その、 |うちとけて 、 | |かたはらいたしと→
その、女性が|気を許して書いて、あなたが|読まれたら| 恥ずかしい と
○ 思さ| れ | む | |こそ|ゆかしけれ。(源氏物語?帚木) お思い|になる|ような|手紙|こそ| 見たい 。
○(中宮様は、私の言葉を)→
○ことわりと| 思しめさ| れ | な | まし 。(枕草子?一二九段) |きっと|
道理だ と|お思い |になっ| |ただろうに。
「おぼさる」は尊敬動詞「おぼす」と尊敬の「る」の二卖語、「おぼしめさる」は「おぼしめす」と尊敬の「る」の二卖語と考えるのが一般的です。
○「…れ給ふ」「…られ給ふ」の「れ」「られ」は、自発か受身ですが、
○ 君は、とけ ても|寝 | られ |たまは|ず 。(源氏物語?帚木) 源氏の君は、安心して | | お | |休み| |になる|
|ことができ| |ない。
のように、打消を伴う場合は可能を表します。要するに、「れ給ふ」「られ給ふ」は、二重尊敬ではありません。
$85-2 なぜ「れ給ふ」「られ給ふ」は、二重尊敬ではないのか
ここで日本語の敬語表現について、語源的に考察してみます。
○聖徳太子 、褒美を|賜ふ(給ふ)。 聖徳太子が、褒美を|下さる 。
この「賜ふ」は、上から下に「お下げ渡しになる」という「下賜」の意味の動詞です。これが補助動詞として使われるようになった。
○聖徳太子 、法隆寺を|建立し| 給ひ |けり。 聖徳太子が、法隆寺を|建立し|て下さっ|た 。
法隆寺を建立するという動作を、人々のために「して下さった」と表現することによって、太子の動作に敬意を表しているのでしょう。これが尊敬の補助動詞「給ふ」の成立した事情です。しかし、子供の謎々にもあるように、实際に法隆寺を建てたのは聖徳太子自身ではなく、その臣下や、大工たちでしょう。貴人は、何かをする時、それを自分自身でやらず、目下の者を使役して、そう「させる」ことが多いのです。そこで、太子に対するより高い敬意を表現するのに、使役の「す?さす」を使って、
○古語 聖徳太子 、 法隆寺を|建立せ|させ|給ひ |けり。
語源 聖徳太子が、下の者に命じて法隆寺を|建立さ|せ |て下さっ|た 。 聖徳太子が、 法隆寺を|建立 | なさっ |た 。
という言い方をするようになった。また、こういう文を読んだ人は、それが非常に高貴な方の動作であると受け取った。これが二重尊敬の成立です。「す?さす?しむ」はもともと使役の意味しか持たなかったが、「給ふ」などと併用されることによって、尊敬の意味を持つようになったのです。ただし、二重尊敬は、それに当たる現代語の表現がないので、一重尊敬と同じように訳すのが普通です。
「せ給ふ?させ給ふ?しめ給ふ」は、このように「使役?下賜」の意味から生じた尊敬表現です。これは、貴人が臣下を親しく使役し、臣下に親しく下賜するということでしょう。が、「る?らる」は、それとは別の、「自発」から生じたものです。「自発」は貴人を、臣下が近づくことを遠慮すべき、遠い存在と捉えた表現であることは$84に既に書きました。
○聖徳太子 、 法隆寺を|建立せ |られ |けり。
聖徳太子が、畏れ多くも、法隆寺を|建立する|ことにおなりになっ|た 。私はそれに関与する立場ではありません。
貴人を近くに捉える「使役?下賜」と、遠くに捉える「自発」は、一緒に使うことはできないのでしょう。現代語でも、
○聖徳太子が、法隆寺を建立されて下さった。
とは言いません。「れ給ふ」「られ給ふ」が二重尊敬ではないということは、このように理解されると思います。
$86 ラ行活用動詞など+「る」「らる」
次の赤い部分を卖語に分け、動詞の終止形?活用の種類(…行~活用)?活用形と、助動詞の終止形?活用形を答
えてください。
①雤に降られて、
②狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる。
(すばしこい兎がいなくなると、大切にされていた猟犬は不要となり、煮て食べられてしまう。) ③大臣の君に重く用ゐられたまはば、(森鴎外?舞姫) ④人々に恐れらるれども、
⑤忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな(拾遺集?右近) 答
①降ら|れ |て (降る ?ラ行 四段?未|る ?用) ②烹 |らる |。 (烹る ?ナ行上一段?未|らる?終) ③用ゐ|られ |たまは(用ゐる?ワ行上一段?未|らる?用) ④恐れ|らるれ|ども (恐る ?ラ行下二段?未|らる?已) ⑤忘ら|るる |身 (忘る ?ラ行 四段?未|る ?体)
「る」「らる」の接続は未然形なので、当然、その前にある動詞は未然形です。⑤の動詞「忘る」は四段と下二段の二つがあり、これは四段活用の「忘る」です。下二段なら「忘れ|らるる|身|を」となります。
$87 完了?存続の「り」の連体形「る」と受身?自発?可能?尊敬の「る」
①住め| る|方|は人に譲り、(奥の細道) 住ん|でいる|所|は人に譲り、
上の「る」は「方」を修飾しているので連体形。その終止形は完了?存続の「り」です。四段活用の已然形に付いています。
②死せ| る|孔明| |、生け| る|仲達を|走ら |しむ。
死ん|でいる|孔明|が|、生き|ている|仲達を|退却さ|せる。
上の「る」も「り」の連体形。サ変の未然形?四段の已然形に付いています。
③かささぎの|渡せ|る|橋 かささぎが|渡し|た|橋
上の「渡せ」は四段動詞「渡す」の已然形で、「る」は完了「り」の連体形です。
④冬はいかなる所にも|住ま| る 。(徒然草) 冬はどんな 所にも|住 め る。
冬はどんな 所にも|住む|ことが出来る。
上の「る」は文末にあるので終止形。受身?自発?可能?尊敬の「る」で、この場合は可能です。未然形に接続しています。
「住める」は現代語の可能動詞の終止形です。古語には可能動詞はありません。
$88 「せ給ふ」「させ給ふ」「せおはします」「させおはします」は二重尊敬。それ以外の「す」「さす」は使役
Ⅰ.「す」「さす」が尊敬の補助動詞「給(たま)ふ」「おはします」と結びついて、「せ給ふ」「させ給ふ」「せおはします」「させおはします」の形になっているとき、ほとんどの場合が尊敬で、二重尊敬になります。 ┌──────────────┐
○殿|は|何|に|か| |なら|せ|給ひ|たる||。(枕草子?除目に司得ぬ人の家) 殿|は|何|に| | | お | ↓ |なり|になっ |た |か。
しかし、まれに例外があります。それは、使役に訳さないとどうしても意味が通らない時だけは、使役と考えてください。
○夜ごとに|人を据ゑて守らせければ、行けども| | え |逢は| で |帰りけり。 毎夜 |人を置いて守らせたので、行っても|業平は高子に| |会う| |ことが出来| |ないで|帰った 。
○……せうと達の|守ら|せ|給ひ |ける|と|ぞ| 。
兄 達が|守ら|せ|なさっ|た |と|!|いうことだ。(伊勢物語?五段)
Ⅱ.尊敬動詞「のたまふ」に「す」が付いて「のたまはす」となった時、「す」は尊敬で、「のたまはす」は二重